2011年09月02日

先日のVACANTファッション夜話会の御礼とお詫び。

 みなさま、先日の夜話会へご参加頂きありがとうございました。
僕がまだ時差ボケ醒めやらぬ身体の侭でその結果、みなさまにご充分な時間を持って頂けたか、
まとめることも為さないで気になっておりました。
 その後、体調が不十分で数日を送り、気になっていたデジュメ等を添えてこの様なかたちで
何かのご参考にして頂ければ嬉しくまとめたものに手を加え、遅ればせ乍らご送付いたします。
 終った時間も遅くなりご帰宅にご支障はありませんでしたか?
これも、気になっておりました。

 今回1部にて、特別ゲストを予定していましたが、おねがいした方が急遽海外へお出掛けになり不参加になってしまったこともお断りせずに失礼をいたしました。

 どうか、これからも、この様な夜話会を継続してゆく予定ですので、これからの会をもっと愉しく、面白いものにしてゆくためにもいろいろ、ご参考なご意見、ご質問等をお送りくだされば嬉しいです。ご質問に関しては出来る限りご返答させて頂きます、良き関係性のほどを。

 なお、発刊予定をしていた『LEPLI-秋号』が送れてしまって当日、間に合わづ,これもみなさまに失礼をいたしました。お待ちして頂いたみなさまにお侘び申し上げます。
 9月初めに100部限定を手作り初版として発刊いたします。
販売は、VACANT, UNDER COVER SHOP, GENBAGEN, DOROTH VACANCE、等 にて販売予定です。乞う、ご期待と共に、よろしくお願いします。

 このファッション夜話会にご参加くださり、まだデジュメを入手なされていらっしゃらない方はご希望の旨をご連絡ください。 lepli0203@gmail.com/ひらかわ迄。

  先ずは御礼とお願い、いろいろ。
三伏の候、呉々もご自愛と穏やかな日々を。
相安相忘。
平川武治:平成23年盛夏。

投稿者 : editor | 2011年09月02日 22:18 | comment and transrate this entry (0)

2011年07月07日

『 3.11/原発企業事故災害』で学んだ事。-1

『 3.11/原発企業事故災害』 で学んだ事。-1
 *第1回;
1.)『国が、国土が、海が、国民が穢された。』
 僕たちの国土が、再び、穢された。
この百年も経たぬうちで3度目の沈痛極まりない出来事である。
先の2度の”穢れ”は敵国によってであった。忘れていないであろう『広島』、
世界最初の原子爆弾の投下と、続く『長崎』。結果の「大東亜戦争」敗戦と
続く、その敗戦処理によって日本人本来の魂が抜かれてしまうまでの”穢れ”。
しかし、今回の”穢れ”は同胞たち即ち、僕たちと同じ日本人によるしかも、
”教養あり、社会的立場を持った、高収入を得てそれなりの生活暮らしぶり”を
していた人たちによる、彼らの思惑と自信と傲慢さと驕りによって”穢された”、
とてつもなく悲痛激しい辛い事故である。
 僕たちの國、日本は自然と共に、自然の恩恵を受け自然と共棲しそして、
自然と戦いもし乍ら、2千6百年程を生かされ続けて来た『日出ずる国』日本であった。
その一部分が今回のような悲惨で罪深きダメージを蒙ってしまった。
 自分の國に想いを寄せるこゝろがあるならば、今後の國体を念い労るならば
このようにこの原発企業事故災害を悲痛な心境で受け止めてしまって当然であろう。
事故後、当事者たち、関係者たち、政治家たち、傍観者たちの多くがメディアへ登場しているが、
その大半の人たちからは、彼らたちのこゝろの在り様が感じられない、見えない。
自分たちの國を母国を”穢した”という本心と自覚があっての発言では無い。
彼らたちなりの立場と役割上の責任回避的なる言葉の羅列でしか受け止められないものばかりであった。
これが結果、「メディアは何も本当のことを伝えない。」と感じ、読まれてしまった最大の原因であっただろう。
 そして、今後の僕たちの國体と同胞の事、そこに生活する若き世代,赤児たちの未来の現実が
どのようになってゆくのだろうかと考えると悲痛なこゝろの想いでこの3ヶ月程を過ごした。
その裏には「僕たちの世代が、あの時に、もっとどうにかしていれば」という自責の念が大きくなり乍ら。


2.)『天皇皇后両陛下を初めとする皇室ご一家が、自らの”立ち居場所”を見つけられた。』
 今回、被災地を数回訪れになられた天皇、皇后両陛下を初めとした皇室のご一家の報道を観ていると
このような事を感じた。天皇皇后両陛下を初めとする皇室ご一家が、
戦後、初めて自らの”立ち居場所”を実感として見つけられたのではないだろうか。
 戦後、敗戦国の戦争責任者としての天皇、皇后と皇室ご一家は『国民の象徴』という
GHQによって与えられた”立ち居場所”を寧ろ、命じられてこの与えられた役割に徹して来られた
65年間でいらっしゃったであろう。
 しかし、今回のこの3.11/東日本大震災の被災者たちを見舞われた報道を観て、
あのように被災者の人たちと同じレベルの床に膝まつかれて差し伸べられる手と
励まし交わされる言葉は『人間天皇』以外の何ものでもなかった。
 このような考えは生意気で失礼であるかも知れないが、
今回の一連の天皇、皇后両陛下を初めとした皇室ご一家の被災者たちを見舞われた行為によって
見舞われた被災者たちもそうであっただろうが、何よりもその行為によって当事者となられた
天皇皇后両陛下を初めとする皇室ご一家が戦後66年目にして初めてご自分たちの 
”立ち居場所”をご確認為されたのではないだろうか?
 これは今後の日本国のために或る意味ではもの凄い事であり、
大いなる新たな可能性を産み出す根源にもなるはずであろう。
しかし、当然であろうが、メディアはその光景のみを報道して、その本意は決して報道しなかった。
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2011年07月07日 06:45 | comment and transrate this entry (0)

『 3.11/原発企業事故災害』 で学んだ事。総括編。

『 3.11/原発企業事故災害』 で学んだ事。
 結論から言えば、これは我々日本人が選ばれた、”神=自然の啓示”であるというポジティブな発想を願って。

文責/平川武治:平成23年6月11日

*はじめに;
 事故後3ヶ月が経た今も「恐怖と不安さそして、無念さと悔しさ,悲しみと哀れさ」に
こゝろ同じくする者たちは今回の”3.11/東日本大震災”という思いも依らない過大な自然災害により
東京電力福島原子力発電所における企業事故が併発し、
この想像を絶する事故の大きさと悲惨さの現実を知れば知る程に
又、この事故が及ぼす今後の僕たちの母国日本に及ぼされるであろう諸被害と
多くの悪影響を考えると僕たちには何が出来る事なのか?
そして、何をしなければならない事なのか?を意志強く自問し続け、
そこから僕たちに出来る事を見つけ出さねばならない。
即ち、それぞれの『立ち居場所』を、
ここには決して、見えている表層の哀れみにのみこゝろを囚われる事なく、
冷静に強く謙虚に受け止め、真に学びこれからの僕たちの國への新たな可能性を
そして,僕たちの國を想うこゝろと共にそれぞれが
新たな日本人としての『こゝろの在り様』を見つけ出さなければならない。
ただ「がんばろう、日本」レベルだけでは不足するものがある。

**僕が「3.11/東日本大震災と東京電力福島原子力発電所における企業事故災」から学んだ事とは。
1.)『国が、国土が、海が、国民が穢された。』
 *2度の穢れは”戦争”という状況の元での結果。3度目の今回の穢れは”同胞”の行為による悲惨な結果である。
僕たちはもう、“広島”“長崎”を忘れてしまう程に傲慢な民族なのか?

2.)『天皇皇后両陛下を初めとする皇室ご一家が、自らの”立ち居場所”を見つけられた。』
 *戦後のアメリカによる”象徴の天皇”からの国民の”こゝろの天皇”へ脱却出来るか?

3.)『「地盤や地殻構造の違い」によって、どの様な物でも、総てが変貌する。』
 *“根源”が違う事の認識。”シロ”が良くても”イエロー”には狂気という根拠と現実。
総ては基幹あっての正しきもの。

4.)『知った事に対して、何をしなければならないか?』
 *変わってはいけない人間性の根源であり誠実という行為は不変。

5.)『”リスク"の種類と規模が変革した。』
 *自分の荷物は自分で持つ事の誠実さ。人間の荷物は人間が持つしかない。
新たなリスクに対しての僕たちの制度と構造は?

6.)『「新しさが変わる」”新しさ=モダン⇒近代”が変る。20世紀は終った。』
 *こゝろの在り様が変わった。”共棲資本主義”を考え実行する時代性。

7.)『"無知"、"無関心"ほど恐ろしいものはない。』
 *『群衆は思想を持たない』このような時代に生きるための教養が必要。

8.)『戦後の日本国は依然、変わらぬ”アメリカのポチ”。』
 *“占領”というブラックボックスはまだ開かれていない。

9.)『「大和こゝろ」を持った国家戦略シナリオが書けるアーキテクチュアーが不在。』
 *戦後、66年。もう自立し、國を想うこゝろで書かなれればいけない国家戦略シナリオ。
 
10.)『僕たちは”イエロー”であり”大和こころ”を持っている。』
 *文化価値観の自立。異民族たちから多くを学び、“イエロー”を再確認と再構築するチャンス。

11.)『「育ち、表層、深層」夫々のボキャブラリィーが何事にも存在する。』
 *総てのものには育ちのボキャブラリィーがある。“国策”“利権産業”が原発の育ち。
決して、表層のみに偏らず、自らが求めるべき深層のボキャブラリィー。

12.)『”立ち居場所”を捜し始める。そのための”決断”が自由さと勇気。そして、責任が必要。』
 *“豊かなる難民”に成り下がってしまった『僕たちはイエロー』。
日本人としてのこゝろの在り様を探し出さなければいけない契機。そのための勇気と責任。

13.)『2025年へ向けた”ビルダーバーグ・グループ”の眼差しは?』
 *グローバリズムとは『新植民地政策主義』、彼らたちの"New Order World"とは?

14.)『日本という國には原子力発電所という“商品”は不適格品だからいらない。』
 *僕たちは海に囲まれ、自然に育まれ、自然環境と共棲して生きて来た國。
考えるべき僕たちの必需品を!。

15.)『原発の怖さ。エゴの怖さ』
 *核の恐ろしさと人間のエゴの恐ろしさそして、“0-1”世界/二項対立の恐ろしさ。

番外)『このような悲惨な事故に対して、日本のファッションデザイナーたちはどう関わったか?』
 *日本社会は消費慾が不幸を救うと言う変わらぬ現実なのか?

投稿者 : editor | 2011年07月07日 06:28 | comment and transrate this entry (0)

2011年06月19日

あるインタヴュー記事を読んで。

 もう1ヶ月の前の記事ですが、”インタヴュー『原発事故の正体』”
『限界のないリスク、近代社会が生んだ不確実性の象徴。』という見出しで始るこのインタヴューには
もう一つの確実な眼差しがあった。このインタヴューを幾度も読み乍ら感じた事、想った事をまとめたくなった。
/U.-BECK/朝日新聞5月13日掲載;

*新しいタイプに“リスク”とは?
 人間自身が創り出し、その被害の広がりに社会的、地理的そして、時間的に限界がない大災害が生むリスクのこと。
所謂、普通の事故における”リスク”とは、一定の場所、一定の時間そして、一定の社会グループの限定されている。
 しかし、この原発企業事故はそうではなく、新しいタイプの”リスク”をもたらした企業事故である。
このようなリスクを孕んでいるのは原発事故だけではなく、気候変動やグローバル化した金融市場
そして、テロリズムなど他のグローバリズム以後のニュースを賑わせる多くの問題も同じような性格を持っている。
 今回の福島の原発企業事故はグローバリズム以降の近代社会が抱える”リスク”の象徴的な事例である。
 
*なぜ、このような新たな”リスク”が?
 この質問の答えは“人間の意思決定”が総てのリスクを生み出している時代性であるからだ。
ここには以前のような“神の決定”はない。即ち、”神の不在”の時代になった。
ここでは神に代わって、新しいテクノロジーが開発されPCとハイパー機器が一般化、日常化されたハイパー社会。
この社会ではこれらを使っての時間と量と質の変革がなされ、
その結果が情報規模と量もそして、経済における投資活動も変質した。

*『責任』は誰が取るべきか?
 『地震が起る場所、起き易い処』に原子力発電所を建設するという事は政府であれ、
企業であれ”人間”が決めた事です。
ここには”神の存在”は無く,自然が決めた訳でもない。
人間が決めた事であり、人間が背負わなければならない”新しいリスク”が今回の原発企業事故である。
政府や企業は今更、神を問題にする訳もいかずここで”自然”や“環境”を持ち出すしか無く、
”近代化”そのものがもう既に、我々自身では制御出来ない社会を生み出している。
そして、それについて、誰も責任を取らない取らないでいい組織化された
”無責任システム”が出来上がってしまっている。
この社会構造はハイパー社会に於ける”バーチャルな責任システム”でしかない。

*破状した近代社会のための制度とシステム。
 19世紀,近代という時代が生み出すリスクや不確実性に対処するための仕組み
即ち、お金によって補償するという”保険”制度が開発,発展した。
これは“進歩”を可能にするための社会契約だったでしょう。
しかし、今回の原発企業事故が起こしたリスクはこれらの保険制度では対応しきれないもの。
19世紀から20世紀の多くの”制度”は元来、もっと小さな問題の解決のために
設計されて来たシステムであリ、
今回の福島原発企業事故がもたらしたリスクはこの近代社会のための制度とシステムでは処理出来ない
大規模な企業災害事故であった。
 
*資本主義社会の企業の利益は何処へ消えてしまったのか?
 例えば、リーマンで代表された金融システムの破綻の時も自動車界ビッグ3等、いろいろあったが、
あのような資本主義世界の世界企業が不祥事を起こし問題が起きてもその負担を國や市民に廻すのであれば,
それは資本主義ではなく社会主義、国家社会主義の政策であるはずです。
 今回の原発企業事故もそのようです。国家の国民の税金を使い、膨大な予算を使い,
更に、世界一高い電気料金を国民から取って電力企業はこの原発事業を40年以上も推進しておきながら、
彼らが言うところの”安全神話”を垂れ流す事以外には、”万が一”の事故に対しての
具体的な対策案や保証システムを創って来なかった。
いつの間にか、自分たちが儲けた利益は自分たちだけで分配し,自分たちに都合がいい事に,都合よく使うのが
資本主義の正論になってしまった時代性,金権資本主義世界でしかなくなった。

*“市民運動”が必要な時代性?
 産業界や専門家に判断を独占させずに市民の関与が真実を見つけ出します。 
市民社会と彼らたちの”市民運動”がこの変質した資本主義を変革させる事が可能である。
資本主義社会であるが、民主主義国家であるという自覚。
そして、この民主主義の内に市民社会があり、
市民参加の”市民運動”が存在しなければ、産業界と政府の間に強い直接的な癒着が出来てしまう。
そこには”市民”は不在で透明性に欠け諸問題の”意思決定”は
両者間の癒着と連携の元で行なわれてしまう。俗にいわれる、官僚と財界の独占性でしょう。
ここで”市民運動”が関われば、政治に大きな“窓”を設けることが出来る。
即ち、新鮮な風を吹き込むことが出来るのです。
自分の”立ち居場所”に端を発する市民意識と責任意識。
そのための持つべきそして、学ぶべき教養とそこから生まれる問題意識。
この自分たちが関心を持った諸問題に、知った事に対して
どのような行為に依って関わってゆくかの”決断”が“市民運動”そのものである。

*市民運動の必然性とは?
 大切なポイントは、産業界や専門家たちにいかに”責任”を取らせるか?持たせるか?
そして、いかにして透明に出来るか?
又,他方ではいかにして市民参加の構造を組織出来るか?
これらが市民運動が目指すべきところである。
 産業界や技術的な専門家たちは今まで、”何がリスクで、何がリスクでないのか”
これらを決断する権限を独占して来た人種である。
彼らたちは普通の市民たちがそこに関与する事を望まず、
寧ろ、排除して来た特権意識の強い世界の住民であった。
ここには自分たちの民族意識からの責任意識よりも彼らたちが持ち得た世界での
個人のエゴから生まれる特権意識の方が強い。
今回では“原子力村”の住民たちがそうである。

*市民運動に必要なものとは?
 一つは、自分たちの立ち居場所の根源としての”民族意識”です。
今ここに来てドイツ、メルケル首相の動きが表層化し,関心が持たれ始めている。
その根拠の一つに彼らたちドイツ国民が持っている”民族意識”がある。
自分たちの國を想うこゝろとは自分たちの民族を想うこゝろに他ならないという
根拠が伺えるのである。
これが今回の原発企業事故に対する日本政府と政治家たち企業家たちや学者たちと
一般国民にも欠如しているところでしょう。
即ち、國を想うこゝろがあれば“気骨”が生まれます。
 二つ目は、市民としての“学びと教養”が必要である。
そのためには人間としての誠実さと謙虚さが必要ですね。
そのための”学ぶ”という行為が必要でしょう。
市民運動に参加するための必要な知識や知恵を学び、
謙虚さという人間の美徳の一つを持っていなければならない。
こんな時、「群衆とは思想を持たない集団」という言葉を想い出す。
思想を持たない群衆がただ、行動すれば暴挙、暴動になる。
“反対”をしていれば、自分たちの立ち居場所が感じられるからと言っての
”反対運動”では不足するものがある。
 三つ目は、市民運動には“気概”が必要である。
”民族意識”を持って、問題意識について”学びと教養”を身につけ
そこで、日本人としての”気概”が必要でしょう。
この”気概”を持つ事によって、市民運動もがんばり、張り切って
“気骨”ある運動として継続出来るのです。
“気概”を持つ事は勇気と自信に広がり他人を想うこゝろへ発展し、
新しい人間性の強い、ゆとりを芽生えさせます。
 四つ目は、当然ですが、自分の”立ち居場所”が必要です。
今回の原発企業事故によってこの自分の”立ち居場所”が無くなったり、
より、見えなくなったりと、大きくシャッフルされてしまったようですが、
やはり、自分が生きている証しとしても、
この自分の”立ち居場所”は必要ですね。
この事故後にやっと、自分の”立ち居場所”が判った人たちも多くいるでしょう。
何故ならば、戦後の多くの日本人は目先に吊り下げられた”エサ”に操られた結果、
個人の夢をも成就し、それなりの豊かさを享受しその自我のみの傲慢さと虚栄心で現在では
“豊かなる難民”に成り下がってしまたからです。
 五つ目として、もう一つ加える事は“情報”です。
オープンでフラットな”情報”がこの市民運動には必要です。
必要な”情報”は価値と直接的な機動性を持つ。
だから、今回の原発企業事故に於いても
”情報”が不透明、遅い、不確実などのマイナス要素ばかりの”情報”だったので
国民を余計に不安,不信にし、その怒りを増大させる原因となったのです。
しかし、”情報”が敏速で、確実なものであっても
それを受け止める側にそれなりの知識が無ければ、
その”情報”そのものは正常に機能はしません。
結果、今回、“情報の市民化”が正統な市民権を得た。
サイト上においてのYouTubeやUSTREAMやTWITTERと個人のブログによる情報発信の多くが
市民運動への”開かれた窓”として機能を果たしたからである。
世界に自らを開き、もっと協力しあい、協調しあう事がこの”市民運動”にも必要な ”情報”です。
グローバル時代には、どんな國の国民も『新しいタイプのリスク』に 対して
より、オープンな態度が不可欠です。
これらのリスクがもたらす諸問題に対して自分たちだけでは
解決出来無くなってしまったのが現代と言う”近代社会です。
 
 どうか、これらを認識して下さい。
 このように書き記していると、僕は京都大学原子炉実験所助教でいらっしゃる
小出裕章氏の存在を強く想った。
彼の人格と存在そのものが、今回の”原発企業事故”で多くの教えと共感と勇気を与えて下さった。
小出氏の態度は僕にとって、
正に『気骨』ある人間のみが持ち得られる毅然とした、
巨大なも、体制と資本に媚びるところ無い誠実さがあふれている態度そのものである。
『たいへん、ありがとうございます。』

 どうか、『近代性』がそして、『明日』が
『あきらめ』の同義語となって行く事の無いように。
合掌。
文責/平川武治:

*参考文献;「原発事故の正体」/朝日新聞5月13日掲載インタヴュー/Ulrich Beck氏より
Ulrich Beck/ウルリッヒ–ベック著書リスト;
『危険社会』(二期出版、1988年/法政大学出版局、1998年)
『世界リスク社会論――テロ、戦争、自然破壊』(平凡社、2003年→ちくま学芸文庫、2010年)
『グローバル化の社会学――グローバリズムの誤謬・グローバル化への応答』(国文社、2005年)
『ナショナリズムの超克――グローバル時代の世界政治経済学』(NTT出版、2008年)
『再帰的近代化――近現代における政治、伝統、美的原理』(而立書房、1997年)

*小出裕章氏/京都大学原子炉実験所助教;
この『熊取の6人衆』は必見。
http://video.google.com/videoplay?docid=2967840354475600719#
朝日ジャーナル『原発と人間』/別冊週刊朝日緊急増刊:
『原発のウソ』/扶桑新書094:扶桑社刊
『隠される原子力-核の真実ー原子力の専門家が原発に反対するわけ』/創史社刊:等:
 

投稿者 : editor | 2011年06月19日 22:43 | comment and transrate this entry (0)

2010年08月20日

平川武治版終戦記念日に念う事/「生まれて半歳の平川武治が体験した終戦日とは、 その時の祖母は、母は?」−2

 気が付いてみると、
私たちは余りにも自分一人のことと、
その業のために身勝ってで横柄な生き方をしてしまっていませんか?

それが心地よい時期も在ったでしょう。
でも、今では、流石、もうちょっと、恥ずかしさを感じる事はありませんか?
人生を終わり掛け始めてるリタイア組の人たちはこれを認めると自らの人生が?

 自然を念い、他者を想う、親を想う、先祖を憶う
社会を念う、國を念う、地球を念う
時をおもう、お金を念う、愛を想う、性を思う、
この、想うこゝろと想い合うこゝろが純に、自分らしく端整に「調和」していれば
その姿は安心出来るし、美しいはず。

僕たちが簡単に使ってしまっている『 美』は
此処からしか生まれませんね。
 
「 おおらかなる心と案じあうこゝろの調和。」

 このこゝろの状態のキャッチボールが
”しあわせ”と呼べるものではないでしょうか?
しかし、それ自体は決して、永続性あるものではありません。
モノにも、人にも、自然にも終わりがありますように、
幸せや安心にも永続性はありません。

 その幸せや安心が大切であれば、在る程に、
その”関係性”をどれだけ永く継続させて行くか?

此処にも、想い合うこゝろと行為の努力という
『謙虚さ』が必要になるでしょう。
その為には、先ず、ご自分の真こゝろを素直にお持ちください。
そのお持ちになられたご自身の真こゝろを信じて、
その真こゝろの思うままの謙虚さ在る行為を為さってみて下さい。

 此処からが総てのはじまりです。
これは結構、勇気が必要なことです。

その始まりが不十分であれば、
総てが不十分な行為の結果になってしまうでしょう。

例えば、
ご自分が今、美しいこゝろを念っていらっしゃるのなら、
その美しいこゝろの美しさを念う行為をなさって下さい。

その行為が、絵を描くことなのか、服を作る行為なのか、
人を愛する行為なのか、家族を念う行為なのか、自然を思う行為なのか、
本当は、さして問題が無いのです。

 問題は、自分のこゝろの想いに総てが潜んでいることです。
自らの真こゝろの在り方にあります。

学ぶこと、努力することとは
このこゝろの在り方の為に成さなければならない
人間の品位に関わるしなければならない
『謙虚』な行為の一つです。
その不連続が『関係』をも生みます。
その為された経験によって
『調和』の成熟さが生まれて来ます。

 未熟、早熟、未成熟、成熟と、
この成熟さが足りませんね。
多く若い人たちも目先を急ぐあまり、
虚飾に戯れんと、謙虚なるこゝろを投げ捨て、
学ぶ真こゝろが鈍化、退化していませんか?

 未成熟なこゝろに業を張ってもその業はそれまでのもの。
ご自分の業はより、成熟為されたこゝろに持つことで
その業は他者へも耀くまでのものになるでしょう。
お勉強とは、
為さなければならない自心への真こゝろの調和と広がりへの
謙虚なる行為でしょう。

 だから、生ある限り、お勉強はしなければならない。
これも、自然なことなのです。

 戦後の多くの日本人たちは
『不自然な』『無理な』『歪な』生き方を選ばされてしまったことによって、
僕たちが持っていたはずの
『こゝろのバランサー』をも歪にしてしまった
国民に成り下がってしまったこと。

 嘗ての、
僕たちの國の湿りある、優美な調和をいっぱい想い起こしませんか?

これ以上、
”へんな”ことが当たり前にならない前に
『へんな國』にならないうちに!
そして、『へんなあなた』にならないうちに!!
気概ある真こゝろを携えて。

ありがとう。
平成二十二年八月十五日/65回目の終戦記念日に。
ひらかわたけはる:

投稿者 : editor | 2010年08月20日 19:09 | comment and transrate this entry (0)

2010年08月04日

『共棲資本主義』/参考資料:『分かち合いの為のデザイン』『分かち合い工学』を考える為に。ひらかわ版:

共棲資本主義/参考資料:2010年08月03日現在:

*J.アタリ/ "FRATERNITES"『反グローバリズム』/彩流社刊/ '09-6-20
*「分かち合い」の経済学 (岩波新書): 神野 直彦:
*『地域再生の経済学──豊かさを問い直す』(中公新書、2002年)
*『「希望の島」への改革──分権型社会をつくる』(NHK出版、2001年)
*『人間回復の経済学』(岩波新書、2002年)
*『教育再生の条件──経済学的考察』(岩波書店、2007年)
*[エコロジカル経済学の諸原理』/"Elements of Ecological Economics"
/ Routlede/2010-5-03/ISBN-1-:041547380 / ISBN-13:978-0415473811/Ralf Eriksson & Jan Otto Andersson
*宇沢 弘文教授/旭硝子財団-ブループラネット賞/’09年度受賞
http://www.af-info.or.jp/blueplanet/doc/lect/2009lect-j-uzawa.pdf
*セルジュ・ラトゥーシュ/"decroissance"(脱成長、縮退)理論の提唱者。
*セルジュ・ラトゥーシュの論文(日本語で読めるもの)
『経済成長なき社会発展は可能か?〈脱成長〉と〈ポスト開発〉経済学』(中野佳裕訳、作品社、2010年7月)
「生活水準」(『脱「開発」の時代――現代社会を解読するキーワード辞典』晶文社、1996年)
「収縮社会のために」(『世界』2004年2月号、岩波書店)
*サイト掲載/
「開発の自文化中心主義に抗して」
http://www.inclusivedemocracy.org/journal/vol3/vol3_no1_Latouche_degrowth.htm
 『経済成長よ、さらば』/"decroissance"(脱成長、縮退)
http://www.diplo.jp/articles09/0908-4.html
http://www.diplo.jp/articles04/0411-4.html
"Would the West actually be happier with less? The World Downscaled", Le Monde diplomatique (December 2003).
http://www.hartford-hwp.com/archives/27/081.html
"Why Less Should Be So Much More: Degrowth Economics", Le Monde diplomatique (December 2004).
http://www.mindfully.org/Reform/2004/Degrowth-Economics-Latouche17nov04.htm
"Can democracy solve all problems?", The International Journal of Inclusive Democracy, Vol.1, No. 3 (May 2005).
http://www.inclusivedemocracy.org/journal/vol1/vol1_no3_latouche.htm
"How do we learn to want less? The globe downshifted", Le Monde diplomatique (January 2006).
http://mondediplo.com/2006/01/13degrowth?var_recherche=Serge+Latouche
"De-growth: an electoral stake?" The International Journal of Inclusive Democracy Vol. 3, No. 1 (January 2007).
http://www.inclusivedemocracy.org/journal/vol3/vol3_no1_Latouche_degrowth.htm

ブログ『フィンランド発、持続可能な世界への転換』
http://www.ymparistojakehitys.fi/sustainable_societies.html
オランダのエコ団体。
http://www.eco-efficiency-conf.org/content/2010.challenge.shtml
ブログ『さて何処ヘ行きかう風が吹く』/
http://blogs.yahoo.co.jp/tessai2005/
ブログ『東大環境学が解る-丸山真人』
http://www.sanshiro.ne.jp/activity/99/k02/interview/maruyama.htm

ハンスイムラーという経済学者の「経済学は自然をどうとらえてきたか」という本で彼がいっている言葉です。
結局、環境問題あるいは自然の危機というのは人間の生命の危機であるということなのですが、
「生態系の危機の本質的な内実は物証的な自然が危機にさらされているということではなく、
人間の本性が危険にさらされているということである」

*『ポストモダンの共産主義』J.ジジェック著/ちくま新書
*『マルチチュード』A.ネグリ&M.ハート著/NHKBooks

環境三四郎
東大の環境を考える会:http://www.sanshiro.ne.jp/
上野の住民のブログ:http://blogs.yahoo.co.jp/romanticnao/24933603.html
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2010年08月04日 09:49 | comment and transrate this entry (0)

2010年06月15日

或るファッション学生への手紙。/ 少し前の、Gallery FAKEでの作品展で。

 わざわざのメール、ありがとう。
その後、機嫌良くやっていらっしゃいますか?
僕はあなたの作品が好きでした。
あの中では僕が感じた一番正直な真面目な作品で、勇気がありました。
レベルの問題等はいろいろあるでしょうが。

 初対面でのあの様な発言、少し唐突であったようですが、
あなたの持っていらっしゃたご自分の夢に対する”勇気”と“本意”が感じられたので
僕もうれしくあのように喋ってしまいました。
僕流に言えば、大半の人たちが”烏合の衆”。
言われた事の範囲のなかでやっている程度。
それっぽい所でそれっぽい事をして、
そのレベルで”自己満足”または“自己肯定”をして
お互いの”傷”を舐め合っている様な奇妙なレベルと環境でした。
僕の一番嫌な世界。(そのために200円にディスカウントされた飲み物、チープですね。)
 
それに、あの空間自体に美意識も与え無く、
それぞれの”勇気無き自己肯定”がひしめき合っているだけ。
だから、いらした、例えば、あなたのご家族のように”学園祭のノリ”レベルに捕らわれる原因でしょう。
(まあ、学園祭なのですがね、多分ご家族はもっと違う所のレベルを想像なさっていらしたのでしょう。)
 知性と気概を持ってそれぞれの責任を果たして日常生活をなさっている人たちの眼を馬鹿にしてはいけません。

残念乍ら、すべてがあの学校とやらに携わっている先生と呼ばれている人たちの
”なま/生”が良きも悪くも出ているだけの現実というのが僕の眼差しでした。
個人の経験を売りにするのならその経験の継続とディシプリンと
人間としての”生”への考え方としての”本質”を問う迄の”好奇心”が大事でしょう。
その”本質”が甘いのでしょうか?
その”好奇心”がないのでしょうか?
又は、そう、思想がないのでしょう。
何か後ろに、或る種の”下こゝろ”を感じてしまいました。
これは、教える側にも教わる側にも。


 さて、あなたの作品についてはあの時にいろいろ話した事で充分ご理解頂いていると。
もう一度,『人間の拡張』/『Extensions & Expansions of the human Body』を!!!
これからの人間が遭遇するまたはしなければならない、
持ち得なければならない環境と状況を、生活シーンを考えての
あり得るべき”人間”としての可能性を夢を。
”ボディというロマンティックな世界へ”委ねて下さい。
(今を見ているだけの人はここにトレンドが気になるのです。)
 
 もう、男、女のレベルでの問題意識の時代の盛りは過ぎました。
今の21世紀に僕たちが考え思い果たさなければならない事は
「人間と人間性」とその「新たな役割と責任」そのための環境と社会を思い合う事。
その時に『分かち合い』のこゝろがやはり、20世紀と違って大事ですよね!!
そこで、新たな『身体の拡張』性/『Extensions & Expansions of the Body』が一つのヒント。
しかし結局は、”人間の身体が、こゝろを、時間を、思想をそして、夢を、”
【着る】ものが『服』ですからこれしかないでしょう。
ここに行き着くはずです。

 望むべき環境と社会との『Extensions & Expansions of the Body』の
一つのシンボルンまたは、コードとしての『ストッキングを素材に』
どれだけの両義性を持たせるかによって「服」そのものに深みと広がりが出て来る。
その“両義性”を何によって、どのような素材または、コンテンツと
どのようなテクニックを使い合わせられるか?などによって表現する、
そこに”創造性”が発芽する。(ここでリサイクルストッキングを考える事は、案外時代性の一つでしたね。)
それを形に出来るこゝろの想いと技術が最後に製品にする。
そして、始めて自分以外の他者に関われる。
関係性が生まれる。
自分の造った物によって!
ここに“気概”が生まれ
それぞれがポジティフな関係性と行為によってエントロピーが働く。

 このプロセスをもう一度あなたのピュアーの眼差しと勇気でもって
ご自分の学び持ち得た世界観でお考えになって下さい。
理屈は後付けでいい時代性です。
今始めれば、大丈夫です。(”プロパガンダ”をご存じなかった程の純粋が残っていらっしゃったあなたですから。)
未だいっぱい、あなたはあなた自身の時間と勇気を持っていらっしゃるのですから。

 夢を持ち続けて下さいね。
"Just Do It!!
And Never Give up!! through your force & body for  human beings”

 ありがとう。
あの場所で、あなたが一番勇気があったので
此の様なメールを差し上げる関係性が生まれました。
残念乍ら他の人たちは(もう一人いらした、)
あなたが持っていた”自分の夢に対する責任感と勇気”が無く、
唯、在るように見せるためのコンセプトや理屈や恰好付けを、
そんな立場を作っているに過ぎない,
ファッションごっこに戯れる
只の古いタイプのファッション人間たちに憧れている輩?

 例えば、「星の王子様」。
日本人が大好きで一度は読むものでしょう。
もう一度読み直す事も良いかも。
『むやみに、大人ぶる事に煩わされてしまって、かつて子供だった事を憶えている大人は少ない。』
と言う様な事があの物語のコンテンツだったはず。
そして、王子様が置いてきぼりにした一輪のバラの事を想い出すこゝろ。
ここに『分かち合い』や『想い合い』の本質が、共棲精神が。

 風と行き来をし,雲からエネルギィイを。
ご自愛とお励みを。
文責/ひらかわ:

投稿者 : editor | 2010年06月15日 00:07 | comment and transrate this entry (0)

2009年08月06日

チェ・ゲバラの言葉を思い出し、私たちも、黙祷を捧げましょう。

『 なぜ、こんなことをされても日本はアメリカの言いなりなのだ! 』

エルネスト・チェ・ゲバラ/広島原爆記念館見学の言葉。

みなさま、
今日は64年前、世界で始めて
広島に原子爆弾が投下された、『広島、原爆記念日』です。
私たちも、黙祷を捧げましょう。

無残に、犠牲者になられた人たちのご冥福と共に、

忘れないために。
繰り返さないために。

私たちの国を想うためにも。
世界を考えるためにも。
私たちも、黙祷を捧げましょう。


『 なぜ、こんなことをされても日本はアメリカの言いなりなのだ! 』

そして、もう『アメリカ印の日本』を捨てましょう。
「アメリカ印の国体」を
私たちの、

『日本印の国体』に戻しましょう。

今がいい機会です。
勇気と共に:

平成21年8月06日:
鎌倉にて、
ひらかわたけはる:

投稿者 : editor | 2009年08月06日 13:40 | comment and transrate this entry (0)

2009年04月08日

お釈迦様のお誕生日に、 『関係性』と『根拠性』を想う。-1-

今日はお釈迦様のお誕生日です。
『花祭り』の日です。

僕にも思い出があり、
小学生に上がる前だったころ、近くの四天王寺さんの境内に
花で飾られた子供時代のお釈迦様の像にお水を掛けに行き、
その帰りに甘酒を貰って帰ってきました。

これが子供の頃にはうれしく楽しい春の訪れを知る行事でした。
その後は、小学校へ行くようになると始業式がいつも、この日か、もう一日前の7日なので
『お釈迦様のお誕生日』は僕には忘れられない日になっていました。

キリストの誕生日にはあんなにはしゃぎ回る日本人になってしまったのに、
お釈迦様のお誕生日は忘れている人も多いでしょう。

これが、今の日本人の心の根拠性の原点の一風景かもしれません。
『残念ですね。』
『悔しいくも想いますね。』

日本人の心の中に宗教心がなくなり始めてどれぐらい経ってしまったのでしょうか?
その宗教心がなくなって、僕たちの国はどのように変わってしまったのだろうか?
「気骨」や「気概」とか、「羞恥」や「含羞」という言葉が
「謙虚さ」や「思いやり」というこころの在り様が
実社会から完全に近い形で忘れ去ってしまうほどの、
現代社会になってしまったのでしょうか?

代わって、
消費社会を肯定する方法としての「消費文化」とそれをいじくり回す肯定論。
自分自身を唯、唯この消費社会へプロパガンダすることのみに
安価に、身近になった情報と「時間と自由とこころ」が使われ
今にウケたいと言う行為としての自己宣伝のための生き方。
そのこころは?
その「根拠性」とは?

モノにも、人にも生まれと育ちがあります。
それらが持ち得た「根拠性」を確りと学び知ることが大切です。
それが教養であり知識であり教育であり、経験です。

有り余るほどの物と行為。
これらを選び選りすぐって
自分にとって必要なものや事そして人を選ぶためにも「根拠性」はその根源でしょう。

以前に「もっと深層を」。
『表層のみにとらわれる』のではなく物には必ず見えていることがあれば
そのものには見えないものがある。
だから、もう少しゆっくりとこころと時間と自由を賭けて
物の「深層」を見るようにしましょう。
それが大切だと。
「深層」を知ることとは
それぞれの「根拠性」を知ることです。

以前に、『いらないものは捨てましょう』を書きました。
『いらないものを捨てる』ためにも「根拠性」が必要になり、必然性を持つのです。
その時に『宗教心』が必要になるのです。

いいですか?
自分の持ち得た『エゴ』を捨てることが
これからの時代を救うことへ通じる
唯一の、
誰でもが出来うる大切な人間としての『行為』なのです。

この人間としての行為の内なるに『宗教心』が。


今日は4月8日。
お釈迦様のお誕生日です。
『お花祭り』の日です。

お祝いをしたい人は近くのお寺へ出掛けて御覧なさい。
掌を合わせてください。
自分の心の前で。

ここに真こころが在ります。

『合掌』

ありがとう。

投稿者 : take.Hirakawa | 2009年04月08日 00:55 | comment and transrate this entry (0)

2009年03月08日

今日のCOMME DES GARCONSの巴里コレクションを見て想ったこと。

 巴里コレクション’09/'10-A/Wにおける今日の『COMME DES GARCONS』のショーは久しぶりに深くゆっくりと感動したコレクションだった。
 その作品群は近・未来観を確実に感じさせる想像性豊かで、人間味溢れる距離感から丁寧に穏やかにそして、細やかに着る女性のために素材が選ばれ縫い合わされ、それらを自由な優しさの発想で着る女性を想う心でデザインが為されたコレクションだった。そこに僕が以前から考えていた『CARE/CURE』という新たなコンセプトが彼女によって見事に時代を先取りし、具現化され始めたと読んだ。

 世界恐慌の時期であるが、時代は確実に新たな可能性を、それぞれが持ち得た関係性の継続のために委ね始めたと読めるであろう。
もし、自分が勇気を持って与えられた自由さをその創造性の為に使うならばいつの時代も確実に新たな可能性が創造される。

 この日の朝、9時半という早い時間に行われた『JUNYA WATANABE』のショーはオペラ『トスカ』の頭と終わりの部分を趣味良く、気分よくそれ以上に新鮮なコスチュウムとして出てくるもの皆が、「It's so special!!」なコレクションだった。
時代の捉え方と女性への想いと自らが持つ創造性を彼もまた、見事に明日からそれなりの女性はきっと待てずに着たくなるまでの服に仕立て上げ、演出されたコレクション。この彼のデザイン性の根底にも『PROTECT/PROTECTION』から『CARE/CURE』というこれから主流になろうコンセプトが読める。

 僕が想う『CARE/CURE』とは、これからのモードが馬鹿げた騒々しいバニティーな一方向性から、着る女性を優しさのジェンダーへ、人間的なる次元へ、『健康、安心、安全とそのための快適性』へ向かうこと、そして、それらは新たな服が持つべき『役割』であり『機能性』であると考えるまでのデザインコンセプトが『CARE/CURE』なのです。このコンセプトをどのような素材を選び、加工し、合成してそれらをどのようにデザインするか? これがこれからの新たなモードに求められる豊かな生活者たちのためのデザインコンセプトであろう。
 
 自分たちが着たい服を着ることによって、身体と心と性を健康、安心、安全とそのための快適性を与えるまでの発想が必然的な時代性となるだろうという考えなのです。
単純に考えてみると、ジーパンが50年代に作業用の衣類でしかなかったのが’60年代終わりから音楽というメディアと伴により、一般化し始め’80年代にはファッション化されそして、現代までに受け継がれていることを改めて考えてみるとジーンズはまさに、この着る服によって、『健康、安心、安全とそのための快適性』を主軸にデザインされ続けられてここまで来た完成品といえるだろう。

 今後のモードにおける新たな創造は素材ありきの世界になってしまう。
着る人間性を考えた、身体と心と性のために『健康、安心、安全とそのための快適性』を思う時、どのような素材を選ぶかが先ず、第一の大切な初期創造である。素材に可能性を委ねるデザインがしばらくは必然的な創造性へと導くであろう。タダの形骸的なデザインはもう疲れる。

 このような近未来のモードへの眼差しを持った僕は今日の『COMME DES GARCONS』のコレクションはその先駆けであったのでより、深く、静かに感動してしまった。
 ”ありがとうございました、川久保玲様。”


【参考】ーーーこの原稿はほぼ、2年前に書いた雑誌[Le Pli-1号]のためのものです。
特集『CARE/CURE』
プロローグ;

  「 心ある贅沢は安心をまたは、豊かさを『CARE/CURE』する。」
 
『星の王子さま』を読みましたね? 毎日、自分の大切なものに、育てる責任と喜びを、想いをそのために毎日、小さな木に『水』をやる王子様。 これが『CARE』の初元でしょう。そしてその行為が『幸せ』 何のために『CARE』をするのか? 『継続』のためです。 それぞれが想い持ち得た責任と行為の対象としてのその当事者でしか理解出来なくても良い『関係性』を『継続』させるために、 ぼくは『CARE』を考えています。

**
 私たちが生きてゆく間には、いろいろな、たくさんのすばらしい人たちとの出会いが在り、そこに彼らたちとの共有できる贅沢な時間があって、 それが何らかの形で自分の為すべき事、他者に出来る事としての『仕事』に関わって行く。 この『関係性』が大切です。この繰り返しが大切です。 僕たちが生きて行くという事の確実な根拠性の一つです。

***  
 今、僕はキリスト教よりもキリスト自身が何のためにあのような行為をしたのだろうかを考えます。
その一つの答えに『関係性』が在ります。
これは多分、総ての宗教の根源の一つでしょう。
何よりも大事なのは個々の『関係性』の積み重ねです。
その中には神との関係もあります。 イエスは、『関係性』が総てである事を身を以て示しました。 あくまでも人と人との『関係性』=『愛』と言い換えてもいいと思います。---が総てである事を身を以て示そうとしたのではないでしょうか。  
 つまり,イエスがやろうとした事は,人間が作ったものである「国家」や「貨幣」に,逆に支配されてしまっている状況を『関係性』によって破壊しようとした。それを貫くには磔になって死んだ方が後世までも伝わり効果的であると判断したという事です。
そこに信仰心が生まれたのです。

****
 「CARE】することとは?
一番単純な形としては「水」をやることだと想います。
豊かさを享受された社会に育む個人、個人は“より豊かさへ”という自己拡張のための自己確認行為へ「水」を施す。

*****
 時代性は『保守化の上書き』。
消費文化という価値観の元での与えられた気概は興味,好奇心の拡大化、肥大化とそれらのガゼット化とキッチュ化。このような時代性の元における一番大切な究極の『関係性』とはより確かさを欲望する。
一つは、人間としての“肉体と心”そして、”自然”との関係性。他方,大切なのが友であり、恋人であり“家族”という『関係性』ではないでしょうか?
それらの『関係性』は自分にとって大切なもの、重要なもの、信頼すべきもの、可能性あるもの、便利なもの、不思議なもの、楽しいものそして、愛あるもの、心あるものなどいろいろなレベルの『関係性』があるでしょう。 そこで自分が持ち得た、または、結果、選んでしまった『関係性』をどのように『継続』させて行くか? 関係は友人、恋人、会社や都市、この最初に『家族』が在るのでしょう。
また職業もこの『関係性』から生まれるものでしょう。
 
自分自身の内なる『関係性』を求めながら、その自分が大切にしたい『関係性』しなければならない『関係性』を対=人間、時間、空間、それに自然と季節感や地球と人間としての「五感」そして、モノ=。
これらとどの様に関り『継続』してゆくか,行かなければいけないのか?そのためにはどのような,どんな『CARE/CURE』が必要なのか?
自分にとって大切な『関係性』を『継続』させて行くための心在る、思慮深き行為の一つに『リピート』という方法としての行為があります。 その行為を与えられた時間としての『生』において、どのように具現化して行くか? これが、人が言う『人生』なのでしょう。 僕はここに"CARE"という言葉を感じました。
自分らしい行為としての責任ある『CARE/CURE』は自分が望む大切な,大事な『関係性』を唯一、昇華させ継続させる目的であり、手段でもあるでしょう。

 『 心に楽しく 身体に優しく。-CARE/CURE 』  

 「豊かな生活」を継続してゆくためのデザイン。
「豊かさのためのデザイン」から「豊かさを継続してゆくためのデザイン」を考える時代へ。
では、どのようなデザインが欲望されるのでしょうか?

その時,『創造性』と『装飾性』はそして,『機能性』は何を新たな価値観として、“ニュー・スタンダード”として考えなければならないのでしょうか?
何が「デザインの本意」となるのでしょうか?
『不変なる身体』と『欲望』の関係性からの『継続』。
その為にしなければならない新しい時代に生きる人間として考え、行為する為に、
モードの世界に於いても『CARE/CURE』を考えませんか? 

「 心ある贅沢は安心をまたは、豊かさを『CARE/CURE』する。」

******  
 「 彼は自分自身の好きな対象を培い、養い、そして面倒を見て世話をする。 
対象それ自体を豊かにしようと努め、自分の好きな対象との間に築かされた関係性によって自分自身を培っていこうとさえする。」
これこそが『象徴の関係なのです』
出典/『愛好者(AMATEUR)』をめぐって。 デジタル デヴァイスによる『クリティカルスペース』創出の試み:ヴェルナール スティグレール/11th. July ’07/東大駒場キャンパスにて:

エピローグ;
 ポッチェルリの「ヴィーナスの誕生」を思い描いてください。
中央に誕生したばかりのヴィーナスが、その左右に若きミューズが見守っています。
その右側のミューズの行為の心は『CARE/CURE』そのものです。
美しい花の刺繍が施された上質の布を誕生したばかりのヴィーナスへ。
文責/平川武治:Dec.'07

投稿者 : take.Hirakawa | 2009年03月08日 08:01 | comment and transrate this entry (0)

2009年02月14日

 聖バレンタイの日に;『あなたは、与えられた自由を何に使っていますか?』

今年の僕のテーマは、

    『あなたは、与えられた自由を何に使っていますか?』

みんなが、与えられ、人間として持ち得た『自由』を
どのように使おうとそれこそ、『自由』。
その『自由』を何のために、どのように使うかがその人の人間的なるレベル。

これからのこの21世紀における目標とは、『質』のレベルの昇華作用でしょう。
『生活の質』、『労働の質』そして、『環境の質』と『感覚の質』。
これらの『質』の成長を先ずは、個人のアイデンティティのレベルで
バランスよく自分らしさの元で高めること。
次には、この質を持って世界レベルでの他者との大切な関係性が
次なるレベルへ昇華できるような「こころの根拠」として持ち得、
世界と共有し得るまでに。

即ち、人間生活本来の【贅沢の質】の成長を想い、智慧を使い、考え行動してゆく時代性。

自分にとって 持ち得たる大事な『関係性』をどのように『継続』してゆくか、「継続」できるか?
そのためにのみの、『質』のレベルの昇華作用が、
時間が、経験が、社会が大切になる今世紀の時代性でしょう。
今年という時代はその入り口へ辿り着いたとき。

例えば、モードの世界でもこの現象は来ていますね。
もう、嘗てのアントワープ系のような、ただ「エゴ」でのものつくり、
理屈ばかりの形骸的な服作りは疲れますね。
コンセプトと称した個人のエゴとお絵かきからのデザイン行動はもう辛く旧く感じます。
人は服からも安らぎと安心と快適さそして、健康の質を
そして、人間性までをより、贅沢に求める方向でしょう。
そのための素材選択であり、その素材を生かしたシルエットと機能性とイメージングを
どのような人間的な心と智慧で持って考え作るかの時代でしょう。

「根拠性」が大切だという視点では「糸」が大事です。
獣・羽毛、植物系天然繊維、合成繊維、高分子繊維、加工処理繊維、後加工処理繊維などと再生素材、古着、旧生地利用など、そして、機械織り、手織り手紬等、など。
どのような「質感」と「ふうあい」そして、「機能」ある素材を選ぶか?
これが先ず、クリエーションです。
ここにファッションにおける今後の【新しさ】が存在するだけ。
その選んだ素材をどのようにそれなりに丁寧に料理するか?
美味しく、味わいたくなるような味付けをしてあげられるか?
そして、食べたくなるような盛り付けと幸せになるまでの雰囲気つくりまで。
これを『服』の世界でも考えてください。
A.アライアの世界。LANVIN,エルバスの世界。R.シモンズの世界。
そして、今シーズンではKolorの世界など
、)
もう一方では、コラボというこの世界における協業システムの昨今もそうでしょう。
そこには『関係性』と『質』を根拠とした『質の昇華化プロジェクト』でしかないでしょう。
最近のCdGの動き,JUNYA MANの世界など、)

このモードの世界も本来は「自由の産物」であったはずなのに?
なんだか、息苦しくなって来ていますね。
あなたの『自由』の使い方の眼差しを変えてみませんか?
20世紀の、前時代的な『自由』の使い方はその価値を見直してみましょう。
貨幣経済がバーチャル貨幣経済へと変革しつつある今、
あふれるモノや情報のさなか、
結局はそれらによって、マニュアル化され、バニティへ奔り
『飼い馴らされて』しまった僕たちは
本当に大切なものを見きわめてください。
自分に、家族に、他者にそして、街に、国に、地球にも大切な『自由』を
流されるのでなく、諦めるのでもなく、
真こころある想いある、思慮深い『人間の自由』を
あなたの『自由』の使い方の眼差しを変えてみませんか?

これからは、『人間としての心と眼差し』が必要なる時代性がここまで来てしまったというところが私の時代に対する根拠性。
『男の夢』、『女の夢』の単なるバニティなレベルではなく
『人間の為さねばならない目標』のためのレベルへ。
もう少し、持ちえた心を、学んだ事柄を、経験してきた時間を振ってみませんか?
その為にも、あなたに与えられた『自由』をどのように使っていますか?
自由をどのように使ってもタダです。
先ず、『自由』に対する自己認識をしてください。
「あなたには『自由』が授けられていると思っていますか?」

本来の人間としての『贅沢の質』を持つ事。
これが私が感じる21世紀における本意。
そこに自らの民族性と真こころを想いつつ。

これが私の今年のテーマ。

ありがとう。

投稿者 : take.Hirakawa | 2009年02月14日 22:14 | comment and transrate this entry (0)

2009年01月02日

『 あなたは自分が生まれた国を深く、静けさの内なるへ想いを込めたことがありますか? 』              新たな年、平成二十一年の初めへのご挨拶。

『 美はすでに精神である。ものの命を求道するという上で、美観はまた道徳でもある。贅沢という富の誇示ではない、つつましく敬虔な奉仕である。美、精神、それは道、道徳への謙虚な奉仕である。 』 

『美術は大抵の時に、くらしの飾りものの一つである。しかしわが国のくらしでは、くらし自身が美しかったので、応接室に富を誇示するための美術品の展示は許されなかった。 千利休といふ人が、若干さういふ法式をつくったが、その精神には依然として、虚飾を否定する見識があった。』  保田與重郎著『日本の美術史』より:


「 みなさま、昨年もいっぱいの感謝 ありがとうございました。
あらたへの 自由性を信じたい今年、
大切な関係性に真こころある1年でありますように。
私の自由とは 人間のカオスの揺らぎ。 」
 

あなたは自分が生まれた国を深く、静けさの内なるへ想いを込めたことがありますか?

謙虚、誠実、爽やかと感謝。』
平川武治 / 平成二十一年正月元日:
248-0004:鎌倉市西御門1-16-8:

投稿者 : take.Hirakawa | 2009年01月02日 15:19 | comment and transrate this entry (0)

2008年12月08日

『H&M ファッション黒船』到来 !!

[H&Mは本当に、そんなにすごいのか?]
『H&Mの実質戦略を読む。』
知っておこう、これがファッショングローバリズムの今後の世界戦略:

コンテンツ】
1)日本市場への参入とイメージング拡大の広告世界戦略。
2)中国市場拡大化のプレ戦略。
3)『ストリート・ジャパニズム』といわれる日本発のリアル・ストリートファッションの
  世界へ向けてのMD化戦略の現地収集と発信化。

キーワード】;
グローバリズム、トレンドの賞味期限切れ、アウトレット、イミグレーター・カラード、新・大衆、少子化現象、「トレンドの衣料品化」、W・スタンダード、ストリート・ジャポニズム、逆MD戦略、世界イメージ戦略、広告宣伝費、メディアコントロール、、、


 先ず、この現象。9月13日以来、ファッションに敏感だと自称している決して、お洒落ではないそんな連中たちはもちろん、ファッションメディアばかりでなく、諸手をあげてH&Mイメージ戦略に引っ掛かっている日本メディアの恐ろしさに気がつこう。まるで、『ファッション黒船』到来の状況である。シングル・スタンダードで生きてきた平和な僕たちにとっては、ファッション・グローバリズム時代の黒船到来かも知れない。H&Mは本当にそんなにすごいのだろうか?

 この「黒船」と戦うのは誰なのであろうか? 先ず、H&Mのターゲットが日本では何処なのか?それによって、ライバルも変わるでしょう。 
彼ら、H&Mのメインターゲットはヨーロッパを中心に調べてみても、移民・カラードたちの新世代の若者たちであることを知っておこう。これは、端的な表現をしてしまえば、あの『Mr. New President OBAMA』の登場とも同じコンテンツである。これが現代という時代性を構築してゆく新社会構造であり、グローバリズム以降のアメリカやヨーロッパが持ちえた社会構造の新たな変化、新たらしい大衆消費社会の新人New Generationsたち、『新・大衆』の登場である。これは、かつての、『植民地時代』のパラドックス化。グローバリズムが『新・植民地主義』であると称される本意の一つがここにある。自国内にイミグレーターたちが完璧な入子構造化が構築されてしまっている。

 彼ら、イミグレーターたちやカラードたちの新世代たち、『ニュー・ジェネレーション』による『新・大衆』が存在しない日本の消費社会では、時代が変わってもターゲットの本質が変わらないですから依然、「世代間+テイスト」で斬る人口比率のMD発想でしかないのが現実の日本の消費環境でありこの中へ入れ込むにはイメージングとメディア戦略でしかない事情。だから、僕的に言えば彼らたちの本当のライバルは『ユニクロ』よりはむしろ、『09』『ZARA』『ラフォーレ』的なファッション感覚に目聡いがお金がそんなに使えない、使いたくない層がメインとそして、最近増えつつある『アウトレット』との競合化でしょう。喰われるのは国内アパレル系のブランドとセレクトショップ系のオリジナルブランド層がライバルでしょう。『ユニクロ』とはオリジナルなカテゴリーと商品の育ちが即ち、「べーシック」が違いますので立ち上がり期はライバルとなりますが、最後は日本的な折り合いの中でGAP化、即ち、かつてのGAPのような末路を辿るでしょう。 

 年代でいえば、30代そこそこまでのOLと学生、フリーターレベルでしょう。この世代は『少子化』で人口が先細りしている構造でイメージには強い層。彼らたちをどれだけ話題性とイメージ力で捕まえておけるかがH&Mの寿命でしょう。それに忘れてはならないのは中国、台湾、韓国からの観光客も大事なターゲット。

 今、日本のデパートにファッション顧客がいるのでしょうか?デパ地下顧客はいても?デパートのフロアー構成が日本のアパレルの縮図構成でしかない以上は今後、未来は大変な状況でしか?? だから、本当は日本のデパートがこのH&Mレベルを「お気軽ものトレンド」として、餡子の様に真ん中においてその上に『ラグジュアリー系』、その下にコンビニアンスな感覚の『美的生活デザインガゼット』そして、『デパ地下』という単純なコア4層構造方式で今後のデパートの基本的構造は決まりでしょう。後は、それぞれのコアのテイスト細分化で作れるマドリックスがデパートでしょう。

 今後の日本のファッションビジネスの発展性、許容量はもう残念ながら'90年代の様な延びはありません。なぜならば、外国のように日本国内には戦後の政治的配慮から、異民族(イミグレーター/カラード)が共生している社会環境構造が皆無に等しいからです。従って、主軸はいつの時代も変わらず、新たな人口が増えない限り、このS・スタンダードに限界があり許容量が読めます。理由は、若い層の人口が増えない。ファッション学習はますます進化しイメージ先行より、バーチャルな世界へ、反面、トレンドの賞味期限は切れる。経済不況が続く。これらが大きな原因でしょう。

 H&Mが海外で成功した要因は移民たちによる新世代ターゲット、「新・大衆」が誕生したことと「トレンドの賞味期限」が切れ始めてきたこと。そのため、「トレンド」はマークダウンして売らなければ売れない、そして、グローバリズムという時代性を背景に熟知したファッションメディアを使った、イメージング世界戦略によるものでしか有りません。かつて、アニエスB続いて、APCの登場時は「衣料品のトレンド化」でしたが、今は「トレンドの衣料品化」までトレンドの鮮度が低下してしまった「豊かさの蔓延」現象。
そこではトレンドそのものの価値が虚像化してしまった時代性をうまくコンテンツにディレクションしてきた頭のいい、グローバリズムなファッション企業がH&Mです。しかし、ユニクロはいまだに「衣料品のトレンド化」のカテゴリーです。ここが育ちと『W・スタンダード』の違いです。

僕たちが昨年の7月に巴里で発行した、世界でモードを学ぶ学生たちをメインターゲットにした新しいモード・カルチャー誌『Le Pli』の創刊0号がまさにこの現実を一足先に予告したかのごとく、特集として組み、そのグラビア特集ではすでに、H&Mとコムデギャルソンのミックスコーディネートでイメージペイジを構成した。(フォトグラファーがマルタンを撮り始めたロナルドでスタイリング、村田明子)これは彼らたちH&Mに大いに影響を与えたはずである。結果、この東京進出に当たってH&Mは確りと、コムデギャルソンとコラボレーションを行い、その話題性を作り、以後、ご承知のメディア状況である。(このコラボはH&M側からCdG側へリクエストされて出来たプロジェクトであり、一足先に行われたCdGとLVとのコラボは川久保さんからLVへ持ち掛けたプロジェクトであった。)

 今、巴里のオスマン通りにある大型H&M店では奇妙な現象が起こりつつある。
あのコムデギャルソンとのコラボ商品がこの巴里の黒人たちに人気が出て、彼らの大きな体型にカーブしたロゴ、”COMME des GARCONS”がクリスマス商戦さなかに増え始めている。
CdGを黒人たちが着る。これは今までになかった新たな客層がこのコラボレーションによって出来上がったという、東京では考えられないグローバルな現象結果であるのが面白い。この新たな関係性は今後もしばらくは続けられるだろう。

 だが、東京におけるH&Mはそんなに気にすることはないでしょう。GAPを見れば解ります。デビュー当初のパワーが何年続きましたか?残念ながら、6年も続かなかったはずでしょう。(これは通常の日本ブランドのデヴューブームの2倍はありましたが。)日本人の目新しさ好きとめずらし物好きと外国コンプレックスで何年奔れるかが、本当のところでしょう。  
 
 それと共に、彼らは日本上陸と共に日本からの、渋谷、原宿界隈からのMD情報を逆輸入して世界戦略に利用することにも高いプライオリティを置いているはず。ストリート・ジャポニズムをMD化して、H&M発で中国アジアと世界へ向けて発信する方が最後には金になるという魂胆。H&Mも今後の中国拡大作戦の一つに日本をターゲットに味方にしなければならないと知っています。(現在、7店舗が現実?)日本で話題性を作り、それでそれなりの商売が日本で展開出来、その裏で日本発ストリートトレンドのMD情報と新・素材情報をも収集して、世界発のこのブランド・レベル(カラードたちと中国アジア)へマークダウンしたトレンドをH&M流に発信してゆくことの方に本意があり、プライオリティを置いているはずと読みます。

 その証拠に、彼らが立地する場所、銀座、渋谷、原宿?を読んでください。ここにも、彼らたち流の『W-スタンダード』が読めるはずです。
原宿は『ラフォーレ』の並び。渋谷は『09』の向かい側。銀座は『腐っても鯛』の銀座でのイメージ拠点。

 これに、ラグジュアリー系ブランドが使えなくなった、もう余り使われなくなった日本での『広告宣伝費』を今回もまだユーロ高期にこれ見よがしに使っての日本メディア構成。そこへあの、CdGをも巻き込むという強かで、見事な世界戦略の実施ですね。

 海外では、上記の『新・大衆』をマーケットにしたい場合は『漫画、アニメ、ケイタイ、TVゲームそして、MTV、HIP HOPとプロ・スポーツ』が彼らたちへの重要な世界規模でのファッション・コンテンツ。日本の平成生まれたちはもうこの漫画、アニメ・ゲームのオタク・カルチアー世界がファッションの世界へ直結している世代なのです。

 今後、カラードたちとアジアを中心に世界へ向けてのファッションをビッグ・ビジネスと考えるならば、彼らたちは当然の如く僕たちの東京に停泊し、『トウキョウ・ジャポニズム』から新たなコンテンツを学習するしかないであろう。このH&Mの陰になってしまったが、『TOP SHOP Japan』もロンドンから上陸しラフォーレとのタッグ戦略化。また少し先立ったが、フランス投資会社が『09』の2ブランドを買収したのも、多くがこの端的な『3つの目的/H&M戦略』を周到、実施しているだけである。

 
 だから、この辺で、僕たちの「日本人としてのアイデンティティ」をこのファッションの世界でも意識しなければこの継続性はありえません。
これからは日本発がトレンドというまでの僕たちの自信と今の時代感での『ジャポニズム』を意識するべき時代です。
―ファッションにおける『黒船』、H&Mも上陸したのだから。

 (注)S(シングル)・スタンダード;自分の国での成功事例によって、自国の価値判断だけで十分であるという狭義な常識と現実しか持ち合わせていないこと。(最近の若者に増えつつある。)
    W(ダブル)・スタンダード;自分の国でも、また世界のどの国へ行ってもそこでの価値判断は複数であることを経験と認識の上で理解していること。グローバルな世界観には必要な発想。

 『Le Pli』0号は完売。
現在、『LePli』No.01号をUNDER COVERのサポートにより発行準備最中。
特集は『CARE』。プロテクションし過ぎ始めたことに気が付かなければ、次なる世界観へ至れない息苦しさをみなさんは感じていらっしゃいませんか?モードの世界によって僕たちの身体とこころを『CARE』するまでの慈しみさがデザインというシナリオで、『こころに優しく、身体に快適な服を考えましょう。』というコンテンツです。どうか、もう少しお待ちください。そして、ご期待を。
(やはり、資金不足で、もう、1年、遅れたしまいました。お詫びいたします。すみませんがもう少しお待ちください。) 

追記;
    前回にZUCCAのところでYOHJIのブチックがまだ出来上がっていないと書きましたが、今回この街へ戻ってきた今現在、やっと、オープンをしました。これも彼の『思いと夢』の現実化。
 "あの、カンボン通りに僕のブチックはあるんですよ。" ーおめでとうございます。
 
 思い出すに、'80年代の半ば、所謂DCブームとやらが叫ばれたころを通過してきた世代が往々にして持ちえた共通なる思い、それが、もう一方のブームのディーバであった『シャネル』と『フィオリッチ』。
今でも、結構これにひかかって此処まで来た日本人それなりの世代デザイナー諸氏は多いはずだ。

文責/平川武治:


投稿者 : take.Hirakawa | 2008年12月08日 16:25 | comment and transrate this entry (0)

2008年11月29日

ParisCollection‘09 S/S コレクション覚書;Vol.2、3

  『 揺らぐ身体-Illustion/Delusion-Reflections 』
[もう一つの現実。]
かつての6,7年前の東京・シーンが、やっと、世界的な現代社会の一面となる。
『誰でもがお手軽、お気軽にイメージを造れる生活環境。』
デジカメ、ケイタイとPCによるヴジュアル生活がこの、ヨーロッパでも一般化した。
その現われの一つに、今シーズンのコレクションではそんなヴジュアル化社会を幾つかのコンセプトにし始めたシーズン。そして、早熟な若者たちはやはり、自分たちの育ちの世界へモードを引っ張り始める。オプティカルアートから3ディメンション効果、そして、ヴァーチャルなイメージングへ。これらが特徴ある今シーズンのコンテンツと読めることにこの街、パリてはある種の新鮮さと面白さを感じた。そのための素材、プリントそして、こなし方、いろいろ。
アニメ、TVゲームから、ヴァーチャル・ハリウッドへ、かつての『アメリカン・ヒーロー』の世界へも再び?確実に、若者たちのリアルな日常性へモードのベクトルは動き始めるがどれだけ、彼らたちの「ILLUSION・パワー」は天上のオペラやバレー、クラシックーミュージックを再び、満足気に聞き惚れているスノッブたちを地上に揺らし落とせるか? 


 [50年、40年そして、20年。]
CACHAREL, Sonia RYKIEL, ZUCCAそして、Maison MARTIN MARGIELA
それぞれのアニバーサリーシーズンだった今シーズン。

CACHAREL、
ショーフィナーレではM.Cacharelの登場で最高の盛り上がり。自らの50年前の写真を招待状に使ってのアニヴァーサリーショーは、MDに長けた先シーズンからのデザイナーの一人、イーリー(Eley Kishimoto)のうまみある、ちょっと古めかしい既製服をリバティプリントを巧く使い込んだラブリーなコレクション。ショーの終わりに出てきたハイティーン・ジュニアのコレクションにこのブランドがいつも架けている未来を感じる。
Eley Kishimotoたちの優れたMD力が既製服感度へ上手に落としている巧さに驚く。

Sonia RYKIEL
はプレタポルテの黎明期からのデザイナー。シャネルのスピリッツを引きついでのプレタポルテにおけるこの40年はお見事。あのCdGの創成期もまた、ここから始まった。彼女の場合も当然であるがその奥にCOCOが。自らが持つ女の強さを癒すかのような仕事振りはさすが、強い女性たちの共通した業の一つ。時折のシーズンに見せる彼女のオムのコーディネート・ショーは好きだった。多くのこの時代のデザイナーたちが少なくなった現在、T.ミュグレーかソニアにチャーミングなはなやかさとシックさを委ねるしかない現在の巴里・プレタデザイナー。そして、今この街の装飾美術館での展覧会がご褒美で開催されています。
ご苦労様です。
 
ZUCCA
も20周年になるという。もう、20周年か?という、これが実感だった。このブランドが悩み学んだことは多分、自分たちの日本での成功をそのまま巴里へ持ってきても受けないということだったであろう。ここにも、シングルスタンダードだけではだめであるということ。世界を舞台に、そこに堂々と立ちたければ、ミックススタンダードを、それなりのコストとリスクを掛けて学習し持ちえなければいけないこと。その結果が、どれだけ、ユダヤ人業界人(その殆んどがそうである)に認知してもらえるかにかかってくる現実を知ったおかげで今回の20年アニバーサリー。そして、ご自分の『夢』を実現する。あの『Rue Cambon』の入り口に「夢のアドレス」のブチックが。(もと、Maria LUISAの1st.店後) 『継続は創造なり』、おめでとうございました。
(物入りで工事を始めた同じ通りのYOHJIのショップは1年になるが未完。ロシアンマネーが燻っているのだろうか?)

 Maison MARTIN MARGIELA
かつての’90年代始まりまでのCdGの川久保玲は大和なでしこながらあの小柄で、チャーミングな彼女はそのうちなる彼女の気概と性格を持って勇気と努力と根性を彼女自らの美意識と自分の世界観に委ねて、このモードの街へ出掛けて来て10年間、巴里・モードという“大木”をこれでもか、これでもかと揺らし、揺らして天上のサロン服をディストロイさせ地上へ引き摺り下ろした。
その勇気といさぎよさとそれ以上にカッコ良さを感覚的だけではなく、頭と身体で、感じ共鳴し始めた若者たちがその”路上”に落ちた天井からのモードの断片の落穂ひろいをし始める。その多くが巴里のすぐ隣の街の住民、フラマンのユダヤ人たちだった。彼らが習い作るモードには、それまでスタイルというものが見つからず探し回っていた連中。その先鋒が、3年半J.P.ゴルチェのところでこの巴里のモードとはの、何かを見てしまったMARTINと数人の仲間たち。彼らは頭のよさと悪ガキ振りを自分たちのために出資、工面してくれたディーバと共に、自分たちが拾い集めた断片をマジシャン宜しく、そのイメージまでも大胆に、質高く創造し、見事なクリエーションの醍醐味とビジネスを5年タームで僅か、14年間で成功させたのがMaison MARTIN MARGIELA。こんな、彼らたちのデビューコレクションを知っているものたちにしたら、なんと馬鹿げた、惨めなコレクションだったで在ろうか?最近のマルタンしか知らないファショングルービーたちにとってはアレでもいいのかもしれないが、僕にすれば、全くの『マルタン漫画』ショー。悲しくなってきました。会場を後に、出会った数人の旧い友人に打ち明けて、共感を得て一安心。
出てきたものがその後のディゼルイ以降の物がほとんどでマルタン時代のものはT-シャツのみだった様に(?)寂しい限りでした。
20周年記念を謳うも、その影ではマルタン自身の契約期限切れ問題を隠した演出。会場はその昔、モルグだったところ。死体置き場が操車場にそして、この10月半ばからアートスペース104に。そんな会場に多くを集めてのショーに出てくる服自体がもう、既に死体?僕から見れば、あのすばらしい初期のマルタンチームが必死で自分たちの夢へ向けての共有しあった精神と真心が否応にも感じてくるまでの強い品格を感じさせる服は残念ながら1着も出てこなかったショウ。まるで表層はそれなりのアイディアで作られた服、マルタンガゼット。でも、こんな服、誰が高いお金を払って買って着たくなるのか?
やはり、ディーゼルレベルのショーでしかなかったのがこの機に残念だった。もう、既にあの主役、マルタンはいない。終わってしまった。

文責;平川武治

投稿者 : take.Hirakawa | 2008年11月29日 21:03 | comment and transrate this entry (0)

2008年11月26日

Paris Collection‘09 S/S コレクション覚書;『 揺らぐ身体-Illustion/Delusion-Reflections 』

初めに、いつも読んでくださって、ありがとう。
前回の『巴里・コレクション』を軸に時代を感じ取ってみる行為を僕のサイトで数回やってみようと。
今回はその第1回として、目次的総括から。

『 揺らぐ身体-Illustion/Delusion-Reflections 』
 序文;
「 室町時代の武将たちは競って、自分の屋敷の庭に池を掘り、鯉を飼い放すことが所謂、流行りものになった。」
彼らたちは池の鯉の何をそんなに自慢げに観賞し喜んだのだろうか?

 思わず、今シーズンのパリコレを見ていると、こんなことを思い出した。

その答えは、「泳ぐ鯉の肌の色、例えば、緋色、銀色、金色などの鯉の肌の色が泳ぐ水面に反射してその肌の色が美しく揺らぎ、微妙な色彩感覚と文様を周りの自然に対して映し出す、その様を観賞したのです。」
 この様な,繊細でうつろいある四季感覚を観賞吟味できうるのは日本人だけに通じるすばらしい美意識の一つで僕はとても気に入った好きな話として覚えています。

さて、今シーズンのコレクションでは、着る女性たちの身体がより、『新鮮』に輝き揺れ動く様を、楽しげに、エレガンスに、生き生きと、不安げに、でも、力強い女を表現したかったのだろうか? ということを感じさせてくれたシーズンでした。
そして、そんな彼女たちが委ねたい時代の雰囲気、そのものをより、新鮮に魅力的に揺り輝かしたいというのが僕のコレクション観でした。
そこで、このタイトル 『 揺らぐ身体-Illustion/Delusion-Reflections 』 
というボキャブラリーを現代の『時代感』として提案します。

そして、結論的には、「時代は新しいものよりも新鮮なものを要求し始めています。」

[一つの現実。]
パリ・コレ発の『トレンド』の賞味期限の鮮度がかなり落ち、久しくなり始めている。
今シーズンコレクションで見られた幾つかのトレンドもここ2,3シーズン以前からの継続トレンドが主流だった。

例えば、その代表は『フラワー』そして、『アフリカ』。もう一つは『円/サークル』と『ジオメトリー』が今シーズンも解りやすく続いていた。
 
大半のデザイナーたちはこの『継続トレンド』と呼ばれる賞味期限切れの範疇で自分らしさをデザインしている。したがって、トレンドが賞味期限切れであってもそれが消費者の心を捉えればそれはそれで良いという時代性になり始めたということであろう。
ここではデザイナーやブランドの力量として『It‘s a everything so special』を見せてくれさえすればそれなりのスペシャル・プロパープライスでも仕方ないであろう。 が、世間並みのというよりも、トレンドブック並みのトレンドであれば、ファッションに薀蓄を吐く輩たち、消費者はついに進出してきたH&M辺りか郊外型アウトレットモールでデズニーランド気分宜しくの週末お買い物のほうが楽しい。
ここで、現在の東京は新たなファッション都市構造が構築されたといえるであろう。
都市の中心部はブランド・イメージのショールーム。毎シーズンの流行モノをイメージよく情報発信機能のみになってしまったショールーム化。
ここでの売れるもののキーワードは『スーベーニール』。みやげ物感覚で工夫されたガゼット類がメディアに取り上げられてお気軽に。そして、肝心のお買い物はヴァーチャル市場と都市周辺部に要塞の如くに出来上がってしまった在庫処理機能とアミューズメント機能を併設したアウト・レットショップ群。物欲肥大症の買い物上手症候群たちへの新たな気概はこの方向へしばらくは流れるであろう。(先シーズンの巴里ではあのCdGが旅行者たちが行き交う界隈、モンマルトルとマレ地区にスーベニア・ショップを2店舗開店した。*)
 この現実の変化は消費者たちが持ちえた『豊かな生活』とその豊かな生活の継続化および、『もっと、より豊かなる生活』をと言う欲望に対しする『気概』の表れが招いた新たな消費社会現象であろう。
 
*pocket Montmarte/ 17 rue La Vieuville 18e:
pocket Marais / 31 rue Debelleyme 3e:

第2回目;
[もう一つの現実。]
かつての6,7年前の東京・シーンが、やっと、世界的な現代社会の一面となる。
『誰でもがお手軽、お気軽にイメージを造れる生活環境。』

第3回目;
[50年、40年そして、20年。]
CACHAREL, Sonia RYKIEL, ZUCCAそして、Maison MARTIN MARGIELA

第4回目;
気になったデビュー展』;
『 no editions 』 from N.Y.
『 Gurath Pugh 』(ANDAM‘08受賞)from London.

第5回目;
 [H&Mは本当に、そんなにすごいのか?]
『H&Mの実質戦略を読む。』

第6回目;
‘09 S/S: 幾つかのキーワード; 『Reflections 』
【‘80年代終わりから、’90年代初めへ】;

第7回目;
終わりに、
文責;平川武治/巴里市モントロイュ街55番地にて、晩秋:

投稿者 : take.Hirakawa | 2008年11月26日 12:11 | comment and transrate this entry (0)

2008年10月10日

ご質問へ、はらだこうすけくんとyellow whale君そして、いはらゆいいち君へのご返事。

kosuke haradaさま;yellow whale君;

遅れてしまってすみません。
案外と無精者なので一つ一つの処理が厄介ですね。きっと、少し年老いてきたのかもしれません。

とても的を得たコメント、ありがとう。

 避けようにも避けられない全てが現在の僕たちの置かれてしまった国の立場上のアイデンティティでしょう。その上で、ポジティフに共有してゆくところは大いに期待しましょう。
 ここに来て、『移民』が存在しないような(?)状態の国家の限界も見られるのですが。戦後、60年の良いも、悪いも『ツケ』でしょう。
おっしゃる様に、この欧米ではこれからこの戦後の日本の”NO LIFE”カルチュアーが彼らたちの国の『移民』の若者たちによって主流化して来るでしょう。
 確実にこれからはそれぞれの国で生まれ育った『移民』たちの若ものたちによる『新・大衆』が、新たな消費者層になるからです。しかしながら、彼らたちは決して、それぞれの国に於いて『クラス』へはタッチできない状況を持ちえてしまった『新・大衆』です。幾ら金持ちになろうがここの門は硬く閉ざされたままでしょう。これが、ちょうど、戦後の日本社会の経済的発展と状況が似てくることなのです。そこに、彼らたちの新世代たちには共通したコンテンツとして、『アニメ、漫画、TVゲームとMTV』があるから余計でしょう。
 最近は良くこのフランスで、『オリエント工業』を例に出して話をします。
たかが『ダッチワイフ』。作り続けて30年。これが1.5m.もの見事(?)なものへ創造性を膨らますことが出来るのが日本人。ちょっと、突飛ですがね。

そして、『ネール』は現代日本の"琳派"だとも。

『骨で着る服』
これも、おっしゃるように、究極は人体の骨格をアナトミカルに理解し得た衣服または、民族衣装だからでしょう。農耕民族、四季のある国。島国。湿りの国。などなど。
着物は『民族衣装』。今の洋服は日常生活へ歩み寄った所謂『ご利益服』(?)いろんな意味での。
3次元の人体での骨の部分とは『肩骨』と『腰骨』。
着物を見栄えよく着るための『着付け』なるものは出来るだけ動かないほうがきれいですよの世界。
『ずらし』『くずし』『見栄』などが日本の着物に対するある種の着る側が出せる美意識。それは究極の『曲線』の美学。肉で着てしまってはこの『究極の曲線』が出ませんね。『浮世絵』を見てください。
ここにも、世界へ影響を与えた日本の美意識の根源があります。平面を唯1本の線がきで、3D.を表現してしまったことを。

巴里のデザイナーで、先にも彼の名前を挙げたのですが、”Gustavo Lins"は浮世絵の本をコレクションしています。浮世絵からの曲線が一番人体が表す曲線では艶っぽいと言い切っています。
日本の築城時の方法の一つに『たるみ』という言葉があります。『たるみ曲線』です。これが日本の神社仏閣の屋根の曲線になり、城壁の石垣にもこの曲線が用いられています。
ちょっと、話がそれたようですが、
これで良いでしょうか?
ご質問、ありがとう。
これからも宜しく!!ね。

僕の脳みそをかき混ぜてください。

ご自愛と共に。  

***
ありがとう、いはらゆいいち君;
遅れてすみません。

お元気ですか?

何事も、ポジティフに、
好奇心と責任観と他者を想うこころとで勇気ある行為を自分らしく、周りに関係なくやってしまってください。
そのための2つの経験が必要です。
一つは脳みその経験。これは学びたいこと知りたいことは学んでください。学ぶことが脳みそを経験させます。それから、身体の経験。この2つの経験のバランスが君自身の自信になるでしょう。

そこに、出来れば『自由』という心があればより、すばらしいものになるでしょう。

この自由には少々コストとリスクがかかりますが。
『自由』は創造のすべての根源です。

また何かあれば、何時でも!!
ご自愛ください。

投稿者 : take.Hirakawa | 2008年10月10日 07:26 | comment and transrate this entry (0)

盲目のクチュリエ、Genevieve SEVIN-DOERINGインタヴュー;

「 まるで、魔法使いに会いに行くような気持ちで、 
―――『自由と人間らしさ、その強さ。服しかないその想い。』 」
インタヴューアー;平川武治/モードクリニュシェ:
於;マルセイユの彼女のアトリエにて、4月30日。

*はじめに;
私が彼女、Genevièveに初めてお会いしたのは
アントワープで行われた「パターン展」のレセプション会場であった。
その後、皆さんと夕食会へご一緒させていただいた。
彼女が私の手を握る。
厚い手のひら、太い指、そこから染み出る熱。
エネルギィーとはこのような熱さか?
生きている、蠢いているそして、感じている。
これが私の彼女への第一触感。
不思議なことだが、
この彼女が与えてくださった、感じさせてくださったあの「熱」は
その後、たびたび想い出すまでの感触になった。
在る時は喜びとともに、在る時は憤りともに。
また、やさしさを想い感じるときに。
私にとっては
それは、時には「女の熱さ」であり
「母の熱さ」でさえあった。
それ以来、私は彼女に再会できる日を
機会を密かに、工作し待ち望んでいた。
私は本心、
まるで、魔法使いに会いに行くような気持ちでいた。
私は薄暗く翳りの多いアトリエの中に
彼女の堂々とした背中を見つけた。
彼女は私の方を向き、
その大きくて熱い、あの熱さで私の手を握った。
その瞬間に時空を超えた私。

*インタヴュー;
私: お元気でしたか。
Geneviève : 元気よ、元気。昼食の後、少し昼寝をしたから元気よ。
私: 早速ですが、あなたにとって”自由”とは何ですか。
G : それは選択。一つの強制。
ほら、それは選択、強制に義務を負わせることよ、当然。
それ以外のものは自由じゃないわ。
例えば、私が16歳だったころ、パリへ出た。
お金は持っていなかったし、辛かったわ。
でも、それは私が望んで選択したこと。私は自由を選択したのよ。
私 : では、あなたは幸せですか。
G : えぇ、私は幸せよ。自分が在る、まだ自分が在ることが。
私は自分が学んだことが続いていくことが嬉しい。
ここに、私の娘や生徒たちがいることが私の喜び。
そして、それが前進するのを見る時、私はとても幸せ。
私 : 以前、何かのインタヴューの中で、”総てが、お金の問題じゃない。”とおっしゃていましたが、それはどういう意味ですか。
G : 創造するということに関しては、富やお金が問題ではないという意味。
それは人々がその上、その向こうを見ないということ。みんな近くばかりを見ている。
今のモードの世界はエゴイズム。
つまらない人々がつまらないものを創っているだけで私には興味がない。
私にとっての自分の仕事は、一つの問題と向き合って答えを見つけること。
創造ではなくて解決策。
もう一つ言えば、洋服というのは身体と洋服の間にある距離、空間が大切なのよ。
ストレッチの濫用を取り除いた体が呼吸する空間、従って空間との釣り合いが大切。
私: まさにそれを伴った『服』が、”どのように身体をcareするか”ということですね。
G:そうとも言えるはね。
私: 洋服を作ろうと思ったきっかけは何ですか。
G : 私は知ってるは、どうして私が洋服を作ろうと思ったのか。
私たちが小さい頃、私の両親にはたくさん子供がいたから、女の人たちが家に私たちの洋服を仕立てに来ていたの。
私は彼女たちにこう言ったの。”こんな風に幅の広いスカートにして欲しいな。” ”だめ!” ”パフスリーブにして欲しいな。” ”だめ!” 全て、彼女たちの好みの洋服だった。
その後、私が大きくなった時、自分で自分の洋服を作り始めた。悪くなかったわ、より自分の好みの洋服に出来たから。それから洋服作りを学ぼうと決めた。
一度、パリのオートクチュールの組合の学校 l'Ecole de la Chambre syndicaleで仕立ての勉強をよくしてから、”ファッションのためではなく、演劇のための衣装を作ろう。”と決めた。
なぜなら演劇のための衣装を作るには、たくさんの異なることを学ぶ必要があったから。
そして、それは私に降りそそいだ。
私は装う人の内側が良く在るようになるために、一片で洋服を作りたいと思った。
既製服の上着を羽織ってもし、あなたがこういう動きをした時(両腕を挙げて)、あなたは車を運転出来ないはずよ。もしあなたが両腕を挙げた時、洋服も一緒に上がってきたら、それは、その洋服が上手くカットされていないということ。
今はいたるところで、このような服が売られている。
人々がこのような洋服しか見ていない。これはとても大きな問題。
それと同時に彼等は悪い洋服を装うことにもう、慣れてしまっている。
だから彼等は着心地が良いと感じる形の無いTシャツやジーンズを着る。
見た目は素敵な格好をしても着心地が悪い、反対に着心地が良い服を着ると素敵じゃない?
私: 以前あなたはインタヴューの中で、”きれい、それは人々がよく望むけれど、美しさは深刻ね。” とおっしゃっていましたが、それはどういう意味ですか。
G : それは私の洋服を試して、今までにない美しい自分の姿を見る女性たちに関して言ったこと。彼女たちが今まで眺めることのなかった彼女たち個人の美は、確かに耐えられない。
きれいさは表面的なもの。美しさ、そうね、それは深刻、もっと深いところにあるもの。
美しい服装であるためには、”ちょうど”でなければならない。
人々が美について話をする時、しばしば審美的なことを話す。とりわけモードの世界において。でもそれは装飾にすぎない。そして、それは変化する。瞬間を素敵に見せるためだけ。
物事が美しい時、それはそれらがちょうどである時。一時だけれども永遠に、バランスが存在する時。
ちょうどで在るというのはとても難しいこと。多過ぎず、十分であること。
私 : 洋服を作る上で一番大切なことは何ですか。
G : ちょうどであること。即ち、バランスが存在すること。着る人と着る服との関係においての接触観? 考えを持つのではなく、答えを感じ見つけなければならない。
私 ; 日常の中で一番大切になさっていることは何ですか。
G : 知的な人々に出会うこと、人と話をすること、料理をすること、ラジオを聞くこと…
たくさんあるわ!
私 : あなたは夢を持っていますか。
G : それは私がやってきたことよ!
とても長く、難しかったけれど。でもそれは私がしてきたことよ。
私 : 小さい頃はどのような夢を持っていましたか。
G : 全然!
小さい頃はパリへ出るということを決めただけよ。
私 : 若い人たちにどんなことを言いたいですか。
G : そうね… 楽しみなさい!
仕事というのはいつも辛いもの。山を登るようにね。
でも一番上まで登る必要はないの。偉大なクリエーターになる必要もない。
自分がしていることを好きになりなさい。
日常の中に小さな幸せを見つけること、それが一番大切。
ほら、今日も美しい一日だったわね。
私 : ありがとうございました。

*あとがき;
初めての夕食会。その後、もう6年近くが経った。
変わらないGenevièveさんは80歳。
ヒールしか履かない彼女。
いつも女の人はエレガンスであるべきだからと。
インタヴューの合間もワイグラスに手が幾度も延びる彼女。
飲まない私が注ぐことが遅れてしまう。
『ちょっと、タバコが吸いたいから休憩しよう。いい、あなた?』
あのアントワープの時もそうだったように、ワインを、タバコを堂々と飲み、吸う。
彼女にとっての自分で得た自由の証だと言わんばかりまでの
堂々とした誇らしげが自然に漂う、その時間。
巴里に出て覚えたことがタバコとワインだとおっしゃる。
それは、自分で、自分の好きなことを学び、それで稼いだお金の
自分らしい自分の自由の象徴。
だから堂々と、
きっと、こんなところにも彼女は自分の自由の裁量を、
それは選択。一つの強制。

――暗くなり始めたアトリエの古壁の幾面にも聖母マリア像が像を残す。
こんなにも緊張と怯えが混ざったインタヴュー前は私には嘗て、無かっただろう。
本当は彼女は『マリア』だった。
インタヴュー/完:

******

―GENEVIEVE SEVIN-DOERINGの歩み、プロフィールに代えて。
『 自由それは選択。一つの強制。』

地方出身者、土のにおいを知っている少女。
フランス北部のトゥルコワンという小さな田舎町で生まれる。
その後、南仏の少し大きい町そして、少し文化がある街、エクスアンプロヴァンスにて幼少期を過ごす。自分の将来を見つけることにときめきを感じた16歳、彼女の早熟さは『華の都、巴里』を選択する。そして、オートクチュール組合学校 (l'Ecole de la Chambre syndicale) にて縫製技術を学び自分の世界を持って、自由なひとり立ちの生活が始まる。
幾つかのクチュリエのサロンで働いた後、モードのためではなく演劇のための衣装を作ることを選択する。与えられた条件の元、自分の自由さを“衣装”という演劇の世界で表現でき、多くの人たちに見てもらえる強制の世界へ憧れる。

1948年第2回フェスティバル エクスアンプロヴァンスでのモーツァルト“DonGiovanni” の初演のための衣装を手掛ける。この時ナディーヌ・カサンドラに出会う。彼女の夫は、先ほど亡くなられたYSLのロゴマークをもデザインしたグラフィックデザイナー。そしてリュシアン・ルロンは彼女の師となる。

以後、 レオノール・フィ二ー、ジャン・ヴィラー、ジョルジュ・ウィルソン、ジャン・ルイバロー、アンドレ・バルサック、クロード・レジー、ジョルジュ・ヴィタリー、ミシェル・フォンタイン、アントワーヌ・ヴィテ、マルセル・マレシャル、ジャック・カルポ、ジョセフ・ラッジーニなど有名、無名を問わず数多くの演劇舞台人たちと仕事を共にする。

夫であるReinhard Ubbelohde-Doeringは染色職人だった。
彼個人の仕事よりも彼女と共に、彼女の仕事の必要不可欠な作業である生地の染色を構想し再現していた良き協力者、共にアトリエで働いた。
結果、二人での作品は1972年ミュンヘンにて開催された職人・クリエーターの国際展覧会 “Exempla 2000”にて金賞を受賞。この衣装はパリ、国立劇場(TNP Chaillot)および、アヴィニョンフェスティバルにて1963年から1968年にかけて演技の演習、本番に使用されたものである。そして、これらの衣装は現在、パリの国立図書館の工芸アート部門にて保管されている。

より、豊かな自由を選択するためにその手法を創造した。
彼女の早熟性からの好奇心や欲求は物事のより、奥底へ向かう。
彼女の経験から発想される必要な思考と主張は衣装にエスプリと表情をさらに加えるために新たなアプローチの技法を展開するまでに至る。洋服を作る上でパターンを平面状にて一片にカットする。この技法の原理は、体の動きとのバランスに基づいた彼女の自由な経験とイズムから生まれたものである。このパターンカットの革命は1967年から始め、主に、洋服よりも舞台衣装に活用させる。

異文化がメチサージュする暑い街へ、
1978年パリからマルセイユへ居を移し、アトリエ活動を始める。
この街の近辺、アヴィニヨンやエキサンス-プロヴァンスそして、マルセイユなどで行われる演劇祭等にも多く参加、その活動の場を広げる。

『 母が視力を失った原因は網膜の退行性の病気の発作で、これは遺伝性の病気で、主に男性から遺伝するものだといわれている。
何年かの経過によって、視野が次第に狭まり、こうして暗闇の世界が母に辛い思いをさせた。
遂に1993年、視力の完全喪失は突発的に起こり、ある1つの舞台衣装に関する計画を止めざる終えなくなった。
でも彼女は未だ仕事を続けている、ただしアシスタントたちと一緒にだけれども。』
(彼女の娘、MIMIの言葉。)

1999年、マルセイユ市は彼女の仕事に対する敬意を表し、マルセイユ モード
美術館にて大規模な展覧会を開催する。
次いで、2000年、カナダ モントリオールにて展覧会が開催される。
そして、2003年、アントワープモード美術館の『パターン展』に招聘され展示。

彼女のもとを訪れ、学んだ多くの生徒たちは彼女の服つくりへの情熱と信念そして、自由な心とエスプリを受け継ぎ、それを知った以上、永続させるべくそれぞれの世界で、自分たちが選択した自由をより豊かなるものへ向けて羽ばたいている。
彼女のアトリエには日本人学生もアントワープやロンドンから訪れたことがあった。
彼らたちは『一つの強制』を得たのだろうか?
プロフィール/完
文責;平川武治:
翻訳;佐藤麻美
出典;雑誌『装苑』平成20年10月号掲載済み:

参考資料/
カタログ: lifting:la revue du muse de la mode,Marseille No.1-1999年版
       アントワープモード美術館「パターン展」カタログ:2003年
本 : ITINERAIRE -Du costume de theatre ・la coupe en un seul morceau
DVD: Dans L’armoire du monde
WEB.: sevindoering.free.fr

投稿者 : take.Hirakawa | 2008年10月10日 05:31 | comment and transrate this entry (0)

2008年09月10日

日本人の、日本人たちの価値観を拠りどころにした アイデンティティあるファッションデザインを考える時代が来たようです。

【 日本人の、日本人たちの価値観を拠りどころにした
アイデンティティあるファッションデザインを考える時代が来たようです。
―――巴里入城を目指した兵ども、それぞれのジャポニズム考 

文責;平川武治/

『彼がいかに大切だったかを振り返り
失うことがどれほどの痛手かを知るのです
ココシャネルは彼を後継者と見なしていました
シャネルは女性に自由を与え
イヴサンローランは女性に力を与えました
男性服を女性服に転換することで女性に力を与えたのです
イヴサンローランと今のデザイナーを比べることはできません
才能ある人はたくさんいますし
すばらしい人が現れ成功することを期待しています

引退の日彼は自ら幕を下ろしたのです
一つのファッション とりわけオートクチュールの幕を』

イヴ サン‐ローランが死んだ。
 この原稿を書き始めた矢先だった。
冒頭の文章はP.ベルジェ氏がフランスのあるTV局のインタヴューに答えた言葉です。これがパリのモードの世界の現実でありレベルでありそして、悲しみなのです。

 日本人デザイナーのみならず、パリにおいても【プレタポルテ】のデザイナーたちの登場はYSL,彼が存在したから始まったといっても過言ではない。
‘66年に彼が実際には追い立てられるようにC.Diorのメゾンと惜別して自分のブランド YSL Rive Gaucheを当時としてはアヴァンギャルドにその名のごとく『左岸』で立ち上げる。正に,モードのヌーベル・ヴァーグであった。以後、「’68MAY」と言う戦後の『新たなるフランス革命』と称しても、それがもたらしたその後のこの国の現代思想や政治、社会への価値観の変革と変貌を見れば、決して、過言ではない当時の若き学生たちが起こしたただの「’68MAY」学生運動以後、このファッションの世界もYSLの新しいモードに対する考え方、女性の美に対する想い方そして、フランス美学のオーソッドクスさである『エレガンス』をその中心軸としてさらなる新しいモードの形態が誕生した。それが『プレタポルテ/高級既製服』であった。
 
‘65年、文化服装学院の初めての男子生徒の一人であった高田賢三が卒業後、単身巴里へ向かう、まるで武者修行をしに行くかの如く。’’68年、N.Y。経出かけた三宅一生はその後、迷いながらも当然の如く巴里を訪れる。ちょうどその学生運動のさなかであった。この頃に彼の巴里レポートが当時発売されて間もない雑誌『ハイ・ファッション』誌に連載されているので知ることが出来、面白い。 
クチュールではない、新しいカテゴリーである創造のモードの世界『プレタ・ポルテ』の誕生黎明期であった。総て目にするものが新鮮に眩く輝いて見えたであろう。総てが羨望と欲求の眼差しであったことが多感な三宅のコラムからも感じられる。‘70年、ケンゾーはヌーベルバーグの波にサーフし、やっとつかめたチャンスで自分のブチック「Jangle Jap」をやはり左岸で開店する。’71年、彼を慕って大阪のコシノヒロコのブチックで働いていた入江末男が巴里入りをしケンゾーの所に逗留する。東京からはやはり文化の卒業生、熊谷登喜夫がコンクールのご褒美として巴里へ到着。一度帰国した三宅は資金調達に当時の”東レ”と関わり‘72年に巴里のデザイナーになるためにVavinで初陣する。’74年に山本寛斎も既にショーを、’75年、鳥居ユキがそして、森英恵が’77年にクチュールで巴里にいぞむ。
が、やはり、日本人ファッションデザイナーと巴里を考えるとき、高田賢三の存在が大きい。彼がこの時、パリに居なければ彼の存在が無ければ日本のファッションデザインそのものが10年以上は遅れていたであろう。彼の巴里での活躍が夢となり嫉妬となり東京でもインデペンデントなデザイナーブームが『マンションメーカー』誕生として始まる。
この’60年代終わりから’70年代当時の日本人デザイナーたちは当然、『POPカルチュアー』誕生の暑い息吹を被り、サーフした。そして自分たちが異邦人であることを否応にも認めなければ自らのアイデンティティがぶっ飛んでしまうことに気が付いたコレクションを行っている。自分たちが持ちえた『日本人らしさ』をどの様な感性と美意識とアイデアで巴里という怪物に切り込むか?ポジティフな『ハレ』のジャパニズムを、『POP Japonizm』をそれぞれのテイストとレベルで見栄を張った。

‘77年に音楽の世界では既に『PUNK』が生まれたように、東京ではYMOがデビューしたように、’80年代に入ってからの時代観は少し変化の兆しを見せ始める。その新たな時代観にモードの世界で匕首を突きつけたのが山本耀司とコムデギャルソンの’81年、’82年の巴里入城であった。
特に、CdGは20世紀の巴里モード界の伝説となったコレクション『黒の衝撃』を持って、総ての価値観を塗り替えた。その後、多くの日本人デザイナーたちが、巴里デザイナーたちをターゲットに目指さず、巴里という場所を必要として、自分たちの国のデザイナー即ち、『コムデ』『ヨウジ』を彼ら自らのターゲットとして巴里に関わり始めた。
『’68MAY』の当事者であった女子学生たちが社会への進出を果たした結果、いわゆる、この国でも『高学歴』を持った女性たちの活躍そのものが社会化された時代となり、この新たな価値の元で大いに追い風を受けて巴里のモード界を闊歩し始めたのが
コムデギャルソン、川久保玲が生み出し続けた執拗なまでのアヴァンギャルド性を生命とした創造の世界であった。しかし、現在というモードの螺旋階段の踊り場に立ってしまった僕たちが、沸きあがったあの『コムデ』らしさとは?を思う時やはり、ジャポニズムを感じてしまう。巴里の玄人たちが『ZEN』を口にし始めたことからもそれは理解出来る。『墨黒』をベースに『黒の彩色』化、コーディネートファッション、素材美、無表情さなど等。自分たちが自分たちの国でブームを誕生させビジネス的にも余裕ある状態で巴里入城を始めたこの’80年代の日本人デザイナーの代表者たちも自分たちのアイデンティティはやはり彼ら流のジャポニズムであった。日本の美意識のもう一つ『わび・さび』を歪ました所の『NEGATIV Japonizm』。先の10年前の日本人デザイナーたちがポジティフな『POP Japonizm』であれば、彼らたちは堂々とペシミズムを軸とした『NEGATIV Japonizm』を持って、異種混合を文化創造の大切な糧、教養としている彼らたち巴里っ子たちの度肝を抜いた。

 ‘90年代に入っての日本人デザイナーたちが何を巴里入城の武器としたのか?
それは『UNDER COVER』で代表される『STREET Japonizm』であった。
‘89年小野塚秋良、‘92年荒川新一郎、93年渡辺淳也、’99年高橋盾。巴里のモードの世界も’89年のマルタンマルジェらの登場によってまた、新たな価値観が世に問われ始めた。天上に在ったモードが地上に落ちてしまった時代、音楽ではヒップホップが全盛を極め始める。石油問題で金持ち層が変わり、「創造」が「解体」に繋がると言うまでのパラドックスが始り、地上に落ちたモードのピース(古着)の落穂拾いが始まる。
『裏ハラ』で生まれ育った高橋盾の『UNDER COVER』は自分たちのもう一つの武器である『パンク音楽』を変わらない心意気としてむしろ、気概として、この時ばかりと自分たちの横丁をアイデンティティとして、自由にエゴセントリックにサンプリングし『STREET Japonizm』を世界へ発信させ巴里凱旋したいさぎよさ。

 そして、21世紀の日本人デザイナーたちが巴里入城を目指したとき、彼らたちはどのような自らが美と定めた武器を持参すればよいのだろうか?

例えば、その答えの参考となるのが、一昨シーズン、巴里でデビューコレクションを行った、インド人デザイナー、マニッシュ・アローラの2度目のコレクションに読めるであろう。’70年代のヤマモトカンサイを髣髴させるポジティフで楽しくすべてがSO SPECIALなコレクションで評判を得た。その裏読みをすれば、自分の国インドの産業インフラの幾つかを自分の世界、大好きなモードの世界で突き刺したコレクションと読めた。インドの素材の面白さと良さ。インド人のクラフト感覚の良さと器用さ細やかさ。それにマサラ・ムービーと呼ばれるインド映画の世界とインド音楽。これら、インドではのものを自分のモードの世界のために使った強烈なコレクション。ここには自分の国を想うこころが読める。国をプロパガンダする意気込みが感じられる。巴里絶対主義的に反抗する楽しさと痛快さが見事であった。巴里にないもの、新鮮なものを投げかけた。これによって彼、マニッシュ・アローラは異国のジャーナリストやファッションピープルたちから『スタンディングポジション』が与えられた。

今、残念ながら、日本人若手デザイナーたちからこの知恵と教養とセンスの良い感性が感じられない。今回の『東京コレクション』でも皆無。自分たちの国を想うこころからの自分たちのアイデンティティを考えたアイディアや創造性それにプロパガンダ精神は無く多分、考えもしないで作ってしまっているであろう。彼らの賞味期限切れに近い価値観『トレンド』を未だ最高の拠りどころとしたもの作りはこの辺で考えなければ?!
だからといって、自分たちが不勉強な世界を珍しいと思いつき、和モノや着物を出せばの単純思考、これもいただけない。このレベルのデザイナーは『骨で着る服』を考えるべきである。例えば、巴里ではグスタフ・リンというデザイナーがいる。彼の作品を見るがいい、学べばいいそして、着てみればよい。もう、このような時代になれば、僕たちの国を想うこころが感じられる服つくりを試みる時期に来たのではないだろうか?外国カブレ、外国コンプレックスからのモードは自分たちの存在と立場をなくし、自分たちの民族性を否定するまでのものでしかないことに気が付かないのであろうか? 日本でうけているからそれを持って行ってもダメ。これでは単純なシングル・スタンダードな発想。エトランジェとしての日本人はこの21世紀、どのようにわれわれのアイデンティティあるモードを武器にすればいいのであるかをもっと、教育面からも考えなければならない。

ファッションとは『自由』の産物でしかありえない。自由さが生命である。これを感じさしてくれる作品を生み出せる人間だけが『クリエーター』と称されるはずだ。本質的なる自由さに敏感に反応できる人間。これは共通言語。自由さとは本来、『カオス』の揺らぎ。先輩の、’70年代、’80年代、そして、’90年代の先輩諸デザイナーたちが偉大であったのは、根本は彼らたちが持ち出せたあの時代の自由さ。それがその後の彼らたちの気概へと繋がり、それによって持ちえた異国での関係性を継続してゆく努力と勤勉さが彼らたちの存在そのもの。これを真剣に学び、考えたことがあるのだろうか?デザイナーたちも、ジャーナリストといわれる人たちも。唯、外国ファッション有名校を出たからというだけで表層を見ての評価、デザイナー扱いをしてしまうジャーナリストたち。外国にいても外国人世界へ入りきれず、日本人の取り囲みを金で作ってそこでヒエラルキーを作って自己満の世界でエゴのものつくりしかしてこなかっただけなのに、日本に帰るともうデザイナーに。まるで、『豚もおだてりゃ木に登る』現象が続くのみ。

もうこんな哀れな世界観で、シングル・スタンダードでモードを語ったりいきがったりするのはよしましょう。日本人はこんなモードを提案できる!!というまでの国を想う心もそこへ入れることを忘れずに自分の世界観を堂々と、武器にしませんか?
エディー・スリマンが頼まれてモード誌のために刀を振り回すジャポニズムをやれば、カッコいいの唯の表層の世界もいただけませんね。僕たちは自分の国なのですからもっと深く優しく楽しく日本を思いませんか?そこで一番強いものをモードでパラサイとしてゆくことも、先のインド人マニッシュのように一つの健全でポジティフなアイディアでしょう。そうしたら、今他方には、日本のサブ・カルとしての『オタク』がありますね。これは確実に世界の新世代と彼らたちが構成し始める『新・大衆』のサブ・カルの共通コンテンツなのです。日本人の日本人たちの価値観を拠りどころにしたファッションデザインを考える時期が来たようです。

ずばり、『オタク・ジャポニズム』を考えることもこれからの手段です。もう一つは原点回帰であり、昔取った杵柄。そして、『腐っても鯛』という諺がここに来て案外、大切な価値観。時代が進行発展している保守化の社会性。新たな消費者層としての『新・大衆』である『New Generation』たちの共通のコンテンツは『漫画、アニメ、TVゲームそして、MTVとデジ・カメ』。老いも若きもセルフ・ヴィジュアル化へ走る。再び、『オプティズム』そして、ポジティフな『オタク・ジャポニズム』をどれだけ「So Special」にアッセンブリッジが出来るかが彼らたちの新たな武器となるのでは。現在の日本の文化であるサブ・カル即ち「オタク・カルチュアー」と手先の器用さと素材の新しさそして、エコな心意気を持って『オタク・ジャポニズム』もしくは『アキバ・ジャポニズム』を武器に世界へ特出、特化出来ませんか?

東京コレクションで見ることが出来なかった、感じることが出来なかった
アイデンティティを感じさすまでの、国を想うまでの服つくり。
もう、ここまで来たのだから、自分の国の心感じる服作りもありでしょう。
価値観を変えてみましょう。
賞味期限切れ真近なトレンドに振り回されなで
僕たちの『ジャポネズム』を真剣に、堂々と。
今がチャンスです。

【 これからのファッションにも、
日本人としてのアイデンティティを。
   そのためには、『それぞれのジャポニズム』を探し求めること
そのために国を想うこころを持ちませんか?
   そのための『MIX STANDARD』が必要。
   そして、『EVERYTHING SO SPECIAL』!!
自分にとっての『SO SPECIAL』を。
 】

文責/平川武治 モードクリニシェ:巴里モントロユィ街にて。晩夏‘08

投稿者 : take.Hirakawa | 2008年09月10日 05:26 | comment and transrate this entry (2)

はじめまして。ファッションを勉強している者です。今回タケさんが昔からおっしゃっている『骨で着る服』というものをもう少し具体的に教えてもらえませんか?先日着物の着付けの先生と話す機会があったのですが、実際の着物ではウエストがくびれている人はタオルをウエストに巻いたり胸元を少しふっくらさせたい人は胸元にもタオルを入れたりするという風にタケさんがおっしゃる骨で着るという事と真逆の事を着付けの先生に言われてしまったので当方よく理解できずにいます。どうゆう視点から見て骨で着るという事なのか、その着方の美意識はどんなデザイナーが持っているのか、又は持っていたのかを詳しく教えていただければ幸いです。ちなみに長沢節さんの著作の中で帯を下にずらしてウエストのくびれを活かした着物の着かたを見た事があるのですがこの着かたの事でもないのでしょうか?


お忙しいと思いますが、お返事お待ちしています。
yellow whale

投稿者 : yellow whale | 2008年09月19日 20:15

いつも興味深く拝見しています。
マニッシュ・アローラのお話が出ておりましたが,argentinaのmartin churba率いるtramandoについての意見も聞いてみたいと思いました。個人的には欧米の表現形式とかけ離れた『自由』を見てしまうのです。なんなのだろう,この自由さは。

日本人のアイデンティティについて。個人的な意見を書かせて頂きます。
戦後のアメリカ型民主主義(市場原理主義)を,主体性のない状態である意味野放図に受け入れてしまったこと,皮肉にもこれはアイデンティティだと思います。
そのため,世界で最先端の『行き詰まり』を感じている国,それが日本。 今のこの国の状態は,他国の未来を予見している状態かもしれません。
ヨーロッパを中心に,いまさらながらにオタクという閉塞文化を受け入れようとしていることにそれが見て取れます。そうです,最先端なのです。
オタクという文化は,戦前や戦中の日本人が元来持っていた資質,例えば村八分の慣習などに見られる”集団に従属する”意識とか,ホノルルまで零戦を到達させる軍事技術を開発するファナティックさとかが土台となっていて,戦後の主体性の無い資本主義と化学反応を起こした結果に生まれた文化です。

身に迫る侵略の脅威も無く,移民の問題もなく,大したデモがあるわけでもなく,それでいて投票率は低く,情報とモノだけが充実している。 
そういう何十年間でうまれたカルチャーなのです。

yellow whaleさんのコメントにかぶっちゃってすいませんが,私見を書かせてください。
骨で着る服とは,想像ですが人間の骨格をアナトミカルに理解し得た服ということではないでしょうか? ダヴィンチ的なアプローチがきちんと出来ている服というか。 
和の表現で陥るのは『図柄』のインパクトに依存した表現,これに似た事は東京コレクションのtokyo-pop的表現にもあったと思います。しかし,本当の和服って,きちんとアナトミカルに考えられたものだと思います。だからその対極に究極の『着くずし』の美学があるんだと思っています。

いずれにしても,昔の和も今のオタクも,表層ばかりをなぞっていては『木を見て森を見ず』ってことになってしまいますね。

今やゴミを捨てるのにも金のかかる時代,大衆の心理には消費に対する『後ろめたさ』までが現れてきているように思います。
この状態まで来ているという事は,ある1つの新しい『概念』を感じ始めている民族という事ですから,それは堂々と主張できるメッセージになると思います。
なにしろ技術とか歴史だけは深く,長いものを持っている民族ですからそういったpieceを上手くつなぎ合わせる新しい『概念』,こいつしかないですね。


ずいぶん乱文で失礼しました。これからも楽しみにしています。 

投稿者 : kosuke harada | 2008年09月24日 23:03

2008年03月11日

東京でのコレクションの前に、【日本人デザイナーはどのようなレベルでウケているのか?PARIS 編】

はじめに
 望むと望まないに関係なしにそのカルーセルの中に嵌ってしまえば、自然の流れで再び、コレクション発表の時期がやって来る。
これは巴里も此の東京も同じである。
だから自分たちも【巴里・コレデザイナー】と自負し、同じように勘違いをし、思ってしまう結果になる参加デザイナーが多くなるのだが、本当に、今ウケていると言われている日本発のデザイナーブランドはどのような状況の元で一人歩きし始めたのだろうか?
 昨年の秋にまとめたレポートをここで、此の時期にご紹介。 

一つの眼差し/———アッセンブリッジが上手なデザイナーたち
 日本人はその参加が多くなったデザイナーたち。そして,この国の文化庁が主催しているANDAMでTOGAと口の巧いブランドが貰うまでになる。
 日本人デザイナーたちはここに来て一つの段階をクリアーした感が在る。
『アッセンブリッジが上手なデザイナーたち』という資格を貰った様だ。

これは前回も書いたようですが,今は時代が追い風を吹いている。
この時代の追い風とは、これからこの街、パリもそして、他のEUの都市はこれらの街に住むイミグレーターたちの新世代層が中心の新たな消費者層として確実に『大衆消費社会構造』化へ行くこと。これは、取りも直さず、かつての、’90年代中期以降の日本の状況である。(参照LePli-0号)
そして、具体的には、先ず,進化した新素材が享けている時代性。それらの進化した素材を案外と簡単安価に使いこなせる状況を持っていること。そして,生産構造が未だ確りしている事からのクオリティとデリバリーが他の外国人若手デザイナーたちと比べると良い。それに情報が発達している所からコピーや組み合わせが巧く出来こなせるデザイナーが即ち,器用さがいかせるデザイナーたち。しかし,オリジナリ性は弱いか無いが今は円安で価格が適当に買い易い。従って,買っておいとけば『Made in TOKYO』がセールスポイントにもなり売れる。この状況はメンズもレディースも同じ状況をもたらし始めている。TOGAにしても,今回だけで外国バイヤーの方が国内バイヤーより,数が多くなったと言う。(国内40%、海外60%比率)
 
『勤勉性と器用性と見栄性』が生む見た目感
 しかし,冷静に考えてみると,この状況というのは案外,『日本的なる状況』と言えるかもしれない。従来からの『Made in Japan』には決して,モノの本質的な創造は無かった。そのオリジナリティは無いか貧しいにしても,その主題の取り方、素材の使い方の上手さと巧さで即ち,工芸的に使う事でオリジナルものより以上に装飾的に使いこなしてその結果、それそのモノを”オリジナル”としてしまうことが即ち『Made in Japan』であったはずだ。これは,オーバーな言い方をすると,『日本文化の本質』かもしれない。僕たちが使っている漢字に対しての仮名の関係も然り,磁器と陶器の関係,漢画と大和絵そして,琳派の関係等など。最近でのIT機器類にしても,ケイタイの本体の特許部分はサムソンが押さえていてそれらを使ってのアッセンブリッジが多種多様化されたものが上手、得意分野という事も考えれば、これが,元々の『日本人の作る』という事に対するオリジナリティ性と理解出来る。日本人らしさの『勤勉性と器用性と見栄性』が生む見た目感な「創造の世界」がこのモードの世界へもやっと,ここ60年をへて辿り着いたのかと考えられる。この日本的創造の世界の本質には『素材』へのこだわり観と,日本人の特質性である『器用性と見栄性』とその「見た目感」の関係性が日本的に存在するある種の法則を考えてしまえる。これらも,戦後からの『豊かさ』の発展,進化の結果がもたらした今後,日本人の若い世代に期待するべき所でもあろう。

そんな彼等たちはどのような構造でビジネスを行っているか?
 多く開催されているサロンへの出店が増えている。サロン数は大きなもので10サロンを超える。それらのサロンで、自分たちのテイストとレンジが合うところへモノと自分たちが行って出店する初期的な構造からスターとしているブランド。そして、ディストリビュターオフィスでの展示受注を行っているブランド。(多分、13%〜18%のセールスコミッションを取られてやっているはず)彼らたちに任せば、従来からの良い顧客を持っているのでそれらが自分たちの顧客になる想いをかけて任せる。これらは基本的にショーをやりその後の営業活動を現地のディストリビュターを外付けとしているブランド。

海外バイヤーたちにどのような受け取り方や格付けがなされているのか
商売中心に考えるとこれからもっと、可能性がある日本ブランドという感想。
メインのブランド商品ではないが置いておくと売れてしまうというサブ的なもの。
これは価格帯とデザイン性そして、デリバリーとそれなりのクオリティから。
ここでも、日本人らしさの善いところが認められてのバイニングであろう。
それに、追い風としての話題性ある「新素材と東京」。

彼らたちが世界のメインブティックのメインブランドになるためには
『サロン』出展から次は『ショー』へ。
その時にどれだけ、コストとリスクを掛けて、『明日』を指させられるクリエーションが発表出来るか?そして、それなりの世界レベルのジャーナリストたちに気に入ってもらえるか?
そして、やっと、念願の【パリ・コレ デザイナー】へ!! 今、一歩。

日本のファッションビジネスとブランドの利点と欠点
*素材が豊富。特に新・高品位繊維。
*まだ、国内生産に頼れる構造が残っている。
*出来上がりクオリティがよい。
*デリバリーがきちんとしている。
*市場が大きく、動く。
*メディアのホロがいい。
*消費者が成熟しはじめている。
*プライス面がこなれている。
*売れ線、トレンドものしか作らない。
*クリエーションにおける冒険はあまりやらない。
*ファッション教育構造が特化している。
*ONE POINT DESIGNが出来る。即ち、売れるコツをデザイン出来る。
*手先の器用さでSPECIALが出来る。
*コーディネートファッションは上手。

今後の課題は将来性を指差すこと
総体に売れるものをきちんと作る事がうまく、それ以上の冒険、可能性そして、独自性を打ち出しているブランドはまだ少ない。
トータルで、結果、スペシャル性又は、アヴァンギャルド性又は、クラフト性のそれぞれの高品位性を目指すこと。そして、服の後ろに【文化】が見えるものまたは、【美意識】が感じられるものに挑戦してくれる心意気とレベルが欲しい。これが無ければ、世界レベルのファッション・ジャーナリストたちを驚かす事は出来ない。

肩を並べる外国人デザイナーたちは彼等たちをどのような眼差しで見ているか
ここまで来るブランドであるからそれなりの資金的な現実が先ず、外国人若手より有るのでそれにジェラシーを感じる。それと生産構造が身じかでしっかりしたところが残っていると言う現実は実際に商品を作ること自体が難しい彼らたちにはとっても羨ましいこと。

結論としては、現在のNew-Generationsたちは完全に『CONSUMING-DECADENCE』の落とし子たちである。従って、ファッションを売る事、売りたいという事には早熟でありこの15年程でかなり成熟した日本ブランド。特に、男物はかなり、世界に通じる事が可能。そのサンプリングに『裏原』系が有る。それと、劇画、TVゲームからのイメージングソースは今や世界規模で共通のコンテンツになっているので女物のテイストやモード観の違いがまだ存在する世界よりはやり易い。
それとこの10年間程で、この世界も海外留学生が増え、彼らたちが帰国後やはり、海外を目指し始めた。それによっての語学力の進化も大きな要因。世界マナーを身につけ始めたとも言える。
弱点は、ビジネス構造としてのスタッフ人材に弱い。これからは彼らたち、世界に通用するファッションビジネスマンの養成と教育する事が課題である。
ある意味で中途半端な作り手志向よりも今は、ビジネス力を持つ事が鍵。
どんなものをどんな人が買うかが解らないまま進出しているブランドさえ有る。
現在のままで往くと、あの1987年の『原宿コレクション』参加ブランドがいつの間にかその後、『DC]ブランドという名称をマスコミから貰って創造性豊かなデザイナーブランドの横に並んでしまった状況の巴里版を思ってしまう。
そして、最後に、国内における『ファッションジャーナリズム』を気骨在るものへ成熟させることも大切な作り手への知的ホロが必要。

 彼らたちのルーツ的、キーワード:オタク=STUDENT CONSUMERS=販売バイト/フリーター=オリジナルものと称したコピーもの=T-SHIRTS、靴、帽子、アクセサリー、皮小物、シルバージュエリィーそして=トータルブランド展開へ=『夢』としての海外進出。

 このような、日本人デザイナーたちにとっては『追い風』が吹いています。
この風を上手く利用して『風力発電所』的構造と機能を世界へ、アジアへ向けて気概豊かに、参加ブランド企業も公的機関もそして役人たちも揃って、現実を直視して新たなモードの可能性へビジネス戦略を構築して行って欲しいものである。 
/文責;平川武治/昨夏執筆文:

投稿者 : take.Hirakawa | 2008年03月11日 05:11 | comment and transrate this entry (0)

2007年09月22日

東コレ雑感ー『TOKYIOーCOMPLEX』−4 & 傍観者の眼差し−3


今シーズンは全くに気まぐれで見たシーズン。
東京へ余りたびたび出たくないと言う気の置き所がその理由でした。
ーSUPPORT SURFACE, ユージュ、garconshinois, ato, h.NAOTO, Ne-net, FUR、SUNAO KUWABARA。
結果、見たのはこれだけだった。見たいと思うものはそれでも、幾つかは在ったのですが、単純に朝が早いために、鎌倉の朝と東コレの朝を比べたら駅までも行く気にならずに失礼をしてしまった。お仕事で毎シーズン、毎シーズン,見なければならないという環境と状況の中で東コレを見ていらっしゃる報道記者という方々は、ここで、改めて大変だなあーと痛感いたしました。
 この程度であればJFWのサイトでのチェックで十分という感じもしました。

 「SUPPORT SURFACE」;
このブランドに時間の流れが感じられなくなった。
代わり映えが感じられないコレクション。
変わった事は遅れて来た、トレンドに手を出したこと。(s。スリムG−パン)
良かった事は2タイプの新しい素材が見れたこと。
クチュールで使っても引けを取らないオパール加工のパンチング素材。しかし、このオパール加工で想い出すのはもう、4、5年も前になろうか?市ノ瀬君がやっていたVANDERLIZEのコレクションが早く印象に残っている。今回これを見て市ノ瀬君のコレクションを改めて、すごかったんだとも想い出す限り。
もう一つは薄物の白地のジャガード。これは確実に、次回へ繋がる素材。
さすが、素材関係会社がバックアップしている現実のみが強さを感じさせた。
結局、このデザイナーのベーッシクな持ち得たスタンダードが狭い事。これが継続性の中では、ここに来て彼の世界をも狭くしている。
アトリエ内に、ある種の「異種混合」が必要であろう。

 ユージュ;
見に来ている人たちが、それなりの業界人が目についたのでそれなりのデザイナーなのかと?
 でも、僕はショーが始まって、見ている間に何処を見て良いのか解んなくなってこの教会建築の内部天井の構造を一生懸命に見てしまっていた。
それだけのコレクションでしかなかった。バランス感とテイストが古い。絵を見て絵を描くタイプのデザイナー。久しぶりに退屈したショー。でも、このクラスが一歩間違えればあのDC。そう思うと怖くなったが未だお絵描きのお絵描きで稼げるだろう。僕が発見した事はこの教会を建築した建築家はキリスト教信者でないという事だった。(?)

  ato;
 昨シーズン、見ていない僕は変わったatoというイメージを持った。どう変わったかと感じたか?ポジティフデザイナーになったという程に変わった。それの現れはコーディネートアイテムが増えたこと。本来、ジャケットだけを作っていれば良いコレクションだったこのブランドに幾つかのトレンド的ユニフォームがのぞいていた。彼のコレクションで好きな事、そして信じられる事にこのデザイナーは自分の嫌いな事はやらないという所である。だから、今シーズンの彼のコレクションには幅が出来たとも言えるだろう。(?)しかし、いつも正直に思ってしまうのは『女物』は止した方が良いという事は変わらなかった。あまりにもその『男物』に対して、夢物語的なのだ。怖かった事はショーの最後のアイテムが『ベビードールドレス』だった。

  h.NAOTO,;
 この手のビジュアル系と称される原宿ファッションは僕は、原宿特有のものだと思っていたのが、勉強不足だと言う事に気が付かせてくれた彼のコレクションだった。結局は、v. westwood と pink houseそれに、当然だがMILKが合体した所のガンダム系、アニメのものである事が解った。残念ながら原宿のオリジナルではなかったのが寂しかった。でも、観客の、所謂、顧客たちはそんな事はお構いなく、この時ばかりと競って(?)楽しく、うれしくのびのびと晴れやかに着飾っての参加だった事が僕も楽しかった。バランス感は良いのだろう。コーディネートが行き届いていた。この手のブランドものにも新しさが在る事も気がつかされた。それは、以前であれば、やたらと使いたくなって使う『メタル』ものが少なくなって、『レース』『コード』『リボン』が多く使われていたのがこの系でも、優しさへの進化なのであろうか?ソフトプロテクション?
僕が思ったのは、彼らたちは案外、お利口さんだったという事、それだけ、面白さとリスクは感じられなかった。

  Ne-net;
 今シーズン、見せて頂いたブランドのコレクションでは一番『創造のための発想』が考えられ、時代にチューニングされたもの。東コレでは本当に、数少ないタイプのデザイナーになった?しかも、彼の身体性としてのスケール観が強く感じられる所も良い。在る意味で、彼自身が時代をそれなりに感じ取っている、勘と頭の良さをそして、素直さを感じたショー。このタイプは本当に少ない現在の東コレ。多くは世間の”トレンド”のフレームの中でまとめてしまうもの。"Back to the roots" “New Generation"もう一度自分たちの、ある種の”祖形”(胎児)に戻ってしまいいたい?の思い。マサイ-アフリカを中心としたフォークロアからインスパイアーされたコレクションにここでまた、日本の素材の強みを上手に彼らしく使う。全体としては、やりたい事とやらなければならない事のまとめ方にシャープさが欠けた感があるが、彼自身の世界観を持ってまとめていたのが何よりも楽しかった。ここでも、ジャガード、フリースフリル(?)等の興味ある素材が。でも仕上がりのコンセプトは"ROOT" よりはやはり、未だ、”SOFT PROTECTION”.そして、メディア受けもちゃんと狙った、”カメレオン”。ただ、彼の”創造のための発想”のルーツにはいつも今の時代の日本人の感覚としてのオタク観やその根底の、ある種の少女たちが持つブラックユーモアさえもが感じられるのが僕は興味深い。

 FUR;
 このデザイナーの千田君もなかなかしぶとくがんばっている。
久しぶりに見せてもらったが所謂、”プロ”である。この世界でのお勉強と経験がちゃんと自分の世界を外さずに、最近のこの手の女の子たちが憧れる日本的コーディネートをクラフト的なこなしも含めて巧く、そつなく市場性からも離れない程度でまとめている事。だから、プロ。彼の"SOFT PROTECTION"はスピリチュアリズム志向を都市型ファッションへ向けさせた新しい可愛さか?色の押さえ方、素材のミックス感そして、要所、要所のアクセサリーが時に生きていた。

 SUNAO KUWAHARA;
このデザイナーも先シーズン見なかった事で、こんなデザイナーだったのかと?
時代を感じての”フェミニン”感覚がコレクションへ?それとも、彼自身が好きな世界だったのか?日本人がまともにこの世界へ入って行っても太刀打ち出来ないだろう。間違って、”オカマの宝塚”もの。
エレガンスをどのようにコケティッシュに、ユーモアに、アイロニーも込めて楽しむかのテーマとしての”ピエロ”。テーマをこれでも良いだろう。そのマテリアルには総てに、”自由”な展開が欲しかった。アイテムのまとめ方と素材のこなし方にもっと乱暴だが知性と少女観がある発想が在れば僕は驚いたのに。今のツモリにはこれが備わったことが彼女のブランドが世界で認められたと見ている。靴に印象が残っている。3型程の靴に良さを感じた。

 ここで、僕の好きなSACAIの阿部さんが今回、毎日ファッション大賞を貰われた。
『おめでとうございます。
とても、うれしいです。
が、解っていらしゃるでしょうが、ご用心もください。
この東京、土足で上がって来る人が多いです。』
 
 それに引き換え、新人賞は変なにおいが感じられる。
マッチョな世界のマッチョな臭い。デヴュー時から変わらぬ”表層2nd.SKIN"。
メディアもこの手には勘違いする。素材に助けられて、素材を助けていないコレクション。すばらしい日本素材をレベルの低いこのデザイナーはエゴで玩んでいるだけの世界。料理の仕方も、まして、技術も味付け方も未熟な表層のみの、この玩びをよしとする所謂、『虚飾の上塗り』タイプのデザイナーがまた一人誕生させられた。マッチョな世界が見え隠れの結果なのだろうか?デザイナー自身の謙虚さを今後期待する。

 ごめんなさい、『ミントデザイン』へ行かなかったのが悔しい。
文責/平川武治:

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「東コレ雑感ー『TOKYIOーCOMPLEX』ー傍観者の眼差し-3」
 ”日出る所のものたち”

mintdesignsのショーを見た感想。彼らは今シーズン、JFW主催の東京ファッションウィークに参加していない。意図的になのか、そうでないのか?図らずも、沈み行く泥舟と日出る所のものたちとの対比が鮮明であったコレクション。今シーズンの東コレに来ていた海外招待客も、はるばる極東の首都に来た甲斐があったという様子。最後の最後になってやっと東京土産を得ることができたようだ。

 ショーの中身について。僕が感じたこと、そして彼らが今回のショーで主眼としたと思われることは、「軽さ」「軽やかさ」という今の気分をどうイノセントに、「膨らみ」を持たせながら、優しく、ポジティブに表現するか。それでいて、ある種のシャープさ、リアリティ、華やかさ、エレガンスをどのようにバランスをとりながら最終的な空気感を形作るか。
 「インテレクチュアル」だけど決して尖っていない軽やかさ、軽やかなエレガント、昔々のお話のような「ドリーム」が私たちにもたらしてくれる「楽」さ、「解放」。こんなに薄汚れて行き場のない硬直した表層だけの「コンシューミング・デカダンス」の中で我々はどこへ行き先を見つけようか。すべては美しき「軽やかさ」へ。
 これこそが僕たちが今、本当に望んでいること。世界の実相を見つめながらも、軽やかに美しく、そして知的に自分たちの人生を楽しんで生きたい。

 彼らのモチーフとなったのは「気球」、「飛行船」だった。
 頭には粗い目のネットに包まれた風船。しかしこのようなスタイリングはかつてジュンヤがやったものとは違う。宇津木が今シーズンモデルにかぶらせたカツラとも違う。すべては軽やかさをどう表現するか。重力からどうやって身体を解放するか、といったところに目線があった。
 そして、今シーズンのミントは衣服のバランスを変えてきた。今周りで主流なのは肩のあたりにボリュームを持ってきて、そのボリュームを下に垂らして腰や胴の部分を隠し、足はタイツでラッピングして、身体をどうプロテクトするかといったところ、ミントはむしろ肩の辺りをごくナチュラルに薄くしてドレープで腰や胴の部分に軽やかにボリュームのバランスをつけている。

 僕が連想したのは、1999年あたりでヨウジが出したウエディングドレスシリーズとその前あたりの白のシリーズ。
 しかし、ミントの方が明らかにシャープ、軽やか、そしてグラフィカルでありながら「エレガント」。いつも彼らのクリエイションを見ていると日本ではなくヨーロッパ的な知性のようなものを感じるが、今回のエレガンスはいわゆるヨーロッパ的なそれとは違う視点によって生まれたように思う。
 この「エレガンス」には正直驚いた。普通、エレガンスとは少なからず「老い」「成熟」が関係しているもの。しかし、ミントはある種の「若い成熟」「しなやかさ」のなかに「エレガンス」を見いだしていたような気がする。
 そしてそれを可能にしているのはテキスタイル。グラフィカルなテキスタイルはもともと彼らの得意とするところだが、今シーズンはボーダーを主に、気球や飛行船、雲をイメージしたスケッチのような線画をプリンティングしてきて、「コンセプト」から「お話の世界」へ。「アバンギャルド」から「ナチュラルフィーリング」へと変貌を遂げた。
 カラーバランスにしてもそう。一時期はまじめすぎる色使いと地味さに今を感じることはできなかったが、今シーズンは今を感じさせる、控えめでありながらもポップで鮮やかな色たち。今まで彼らのグラフィカルが連想させてきたある種の数学的、建築的な「カタさ」は消え、よりナチュラルで華やかな知性が感じられた。
 このような彼らの変化は一朝一夕のものではない。「包む」のシーズンあたりからずっと、彼らがイメージする時代感、空気感を形にするにはどうしたらよいかという試行錯誤がありありと見えてきて、今シーズンようやくそのアジャスト、バランシングを見つけてきたなと感じ、感動した。

 これが「沈み行く泥舟」と「日出る所のものたち」との違い。
 これ見よがしのエゴや「自己表現」なるお遊戯会、もしくは過去の枠組みでしか今を見ることができない、結果明日を食いつぶす従順な市場主義者たちは何のためにコレクションをやるのかを再検討すべきだろう。僕たちに今を感じさせながらその先を指差してくれる作り手のみがショーをする資格があり、また意味があるのだから。

傍観者;Josh Matsuzaki

投稿者 : editor | 2007年09月22日 16:11 | comment and transrate this entry (0)

2007年09月13日

「 東コレ雑感ー『TOKYIOーCOMPLEX』−3」

『 もう一つの日本ブランドのあり方。』
 
 『モードのショーケース』のキャピタルとしてのパリへ、このところ2年ほどで多くの日本人デザイナーたちの直接、個人参加が増えている。彼らたちのパリ参加への形態を分類してみると、

*従来からのショーをやり、その後自分たちのメゾンで展示会を行っている既に、世界のブランドの仲間入りしているブランド。それに、ショー後はパリのディストリビューターオフィスに委ねての展示会をしているブランドもこの分類にはいる。
*独自で展示会会場を借りて、展示会だけをやり始めたブランド。
*増えた現地の『サロン』(パリだけで現在では13サロンが開催されている。)と称される完全に商業ペースでオーガナイズされてしまっている合同展示会会場の自分たちのテイストとレンジが合うところへモノと自分たち自身が行ってブースを借りて出店する初期的な構造の参加組。

大きく分類してもこの3パターンであろう。
 即ち、ディストリビューション機能の『内蔵メゾン』か『外つけメゾン』の違いでの現地営業活動であり、これはそれぞれの予算と人材に関係しているだけの違いだけである。これは、取りも直さず現地のそれなりの人たち、ジャーナリスト、プレス、セールスエージェントなどのとの関係性が作品としての『服』を通じて出来上がっている日本ブランドであるか、『お金』と『度胸』(ノリの良さ)だけを持って現地の作られた商業べースの構造の中で、”ウケる”即ち、売る事だけの世界へ入るかの入り口の違いを読まないと勘違いが起る。
 彼らたちの現地評判は、バイヤーたちにどのような受け取り方や格付けがなされているのか?商売中心に考えるとこれからもっと、『売れる』可能性がある日本ブランドという感想。決して、”メインブランド”としての商品ではないが置いておくと売れてしまうというサブ的なもの。これは価格帯と売れるデザイン性そして、デリバリーからだと言う。

 では、彼等の利点と欠点すなわち、日本のこのレベルのファッション産業のインフラ的なるものとは、日本のファッションビジネスの利点と欠点を考えると、

*素材が豊富。特に合繊が今はいい。
*まだ、国内生産に頼れる構造が残っている。
*出来上リのクオリティが悪くない。
*デリバリーがきちんとしている。
*クリエーションにおける冒険はあまりやらない。
*売れ線、トレンドものでまとめ、それしか作らない。
*ONE POINT DESIGNがうまく出来る。
*手先の器用さでSPECIALやONE POINT DESIGNがうまくこなせる。
*ファッション教育が普及している。
*日本国内の市場が大きくそして、何でも有りの節操がない動き。
*国内メディアのホロがいい。
*消費者が成熟している。
*コーディネートファッションは上手。
*プライス面がこなれている。
*即ち、『CONSUMING DECADENCE』な社会環境にドップリである。

 これらの要素と現実が確実に自分たちの身体的規模でそれなりのリスクを張って楽しみに行く、毎シーズンに出会えるバイヤーたちとの”お友達”関係のノリで彼らたちと関係性を作ってゆく事でその結果が、何を彼らたちが欲しがっているかを理解して、帰ってきての国内生産でこれをホロしている。従って、バイヤーたちには都合がいいお利口さん日本ブランドなのである。
 しかし、彼らたちの今後の課題は”将来性”をリスクを張って勇気を持って指差すことでしかない。これがパリでは大事なブランドアイデンティティへと繋がり、この街のモードの世界での本質的な関係性が出来上がって行くのだが、彼らたちはその手前で、無難なところと彼らたちの本質によって、総体に売れるものをきちんと作る事がうまく、それ以上の勇気ある冒険、可能性そして、独自性を独自で”リスクとコスト”を堂々と張って、打ち出しているこのレベルと、規模のブランドはまだ少ない。
きっと、ブランド意識の方が強くそれで儲かってゆけばいいという発想が此の手、展示会参加組には多い。ここではデザイナー志向を持った若手が少ないのが現実。スペシャル性とアヴァンギャルド性そして、クラフト性がハイレベルにバランスが取れ、実際に着れる服、着てもらえる服のコレクションをやっているデザイナー意識の高い若手デザイナーブランドは現在では、UNDER COVERそして,SACAI,TOGA,へと流れが続くぐらいのものであろう。
 では、彼等たちと肩を並べる若手外国人デザイナーたちは 彼等たちはどのような眼差しで見ているか?
ここ、パリまで独自で来るブランドであるからそれなりの資金的な現実が先ず、外国人若手より有る。それにジェラシーを感じる。それと生産構造が身じかでしっかりしたところがまだ、残っていると言う国内現実を利用し実際に商品を作ることと、そのクオリティを保つ事等が難しい彼らたちには、とっても羨ましいことなのである。その結果、デリバリーにも影響が出る。
 この自分たちの身体的規模でのパリサロン・商業的展示会への進出組の結論としては、現在の、ある種のNew-Generationsたちは完全に『CONSUMING-DECADENCE』の落とし子たちである。従って、ファッションを売る事、売りたいという事には早熟でありこの15年程でかなり成熟した日本ブランドとなっている。特に、男物は世界に通じる事が可能強いのが現在だ。
彼らたちの世界そのもののサンプリングに『裏原』系の総てが有る。それに、劇画、アニメ、TVゲームそして、MTVからのイメージングソースは今や世界規模で共通のコンテンツになっているので女物のテイストやモード観の違いがまだ存在する世界よりはやり易い。弱点は、ビジネス構造としてのスタッフ人材に弱い。これからは彼らたち、世界に通用する成熟度とセンスを持ち備えたファッションビジネスマンの養成教育が課題である。
ある意味で中途半端な作り手志向教育よりも今は、ビジネス力つける教育を行う事が大切な鍵。極論を言えば、『イメージを数字に置き換えられるセンスある人材』がほとんど皆無であるのが今の日本のファッションビジネスの現実である事に目覚めなければならない。例えば、自分たちが作ったものがサロンへ出店するまでは、
『どんなものをどんな人が買うか?』が解らないまま、自分たちがサンプルを抱え持ってサロンへ進出しているブランドが殆どである。が、彼れらが強くなってゆく可能性は日本的なる『甘えの構造』のうちでの『東コレ組デザイナー』たちよりも大いに在ると感じる。
 その可能性を現実化するためには、自分たちのクリエーションに『リスクとコスト』をオリジナリティ高く、インテレクチュアルに、勇気を持ってかけられるか?すなわち、『今日の雰囲気』だけではなく、どれだけ『明日を指差すか?』もっと難しく言ってしまえば、服の『表層』だけを作るのでは無く『深層』をどれだけ深く読んでデザインが出来るかに掛かっている。『表層」としてのメディアに左右されない『深層』を感じ読めるかが彼らたち、外国人が指摘している『インテレクチャー』という意味であリ、僕の言っている”成熟度”である。
 彼らたち、多くの日本ブランドの図式を考えると、オタク=STUDENT-CONSUMERS=販売バイト/フリーター=オリジナルもの=プリントT-SHIRTS、靴、帽子、アクセサリー、皮小物、シルバージュエリィー、=トータルブランドへ、=夢としての海外進出。=コンセプト『お友達』なる関係性。これが彼らたちのある種の『リアリテ』であり彼らたちはまず、彼ら自身が消費者であった事が強いリアリテになっているはずである。一方で、レベルそのものは別として『専門』学校出身者が多い事も現在のこの世界を生み出している。卒業生たちはミシンが在る事と先輩、後輩の人材としての日本人的なる(?)関係性。
 それとこの7年間程で、この世界も海外留学生が増え、彼らたちの一部は帰国後やはり、海外を目指し始めた。それによっての語学力の進化も大きな要因。世界スタンダードを、マナーを身につけ始めたとも言える。

/文責;平川武治: 

投稿者 : editor | 2007年09月13日 02:15 | comment and transrate this entry (0)

2007年09月11日

東コレ雑感ー『TOKYIOーCOMPLEX』−2 & 傍観者の眼差し−2

 
「 東コレ雑感ー『TOKYIOーCOMPLEX』-2」
『金ですべてを解決しようとしたオリガルヒ*の存在』/この一文は、最近のロシアでのある事件に対するロシア最高検察庁検事総長の言葉である。

 『21_21』展の最初のアイディアは僕が彼らたちへ与えたものである。
mikio,taro,yoshiたちをはじめとした7人ほどが鎌倉へ来て僕の話を聞きその後、彼らたちが行動を起こして今回の展示会として出来上がった経緯が在った。
 彼らたちは思い切り、不安定なるコンプレックスの固まり集団である。
そのコンプレックスだけがみんなの共通項でありそれ以外の目的や目標それに誰のために、何のために自分が服を作る事を学んで来たかも見事にすべて、バラバラな集団である。
だから面白いとも思った。何も、服作りそのものの想いや実際に”着てもらえる服”を作る事を学んで来た訳でもなく、ただ、彼らたちが思っているかっこいいデザイナーに成りたくて親の金を湯水のように使って、ブランド学校で、外国でそのレベルでは何不自由無く学んできましたから特別に見てくださいという甘えの構造を持ったコンプレクッス集団でしかない。そこにはただ、焦った、小賢しい目的がそれも、それぞれが勘違いして持ち得てしまった結果が言いだっしっぺとしての筆者からすれば、残念だが、この程度にまとまったと言える展示会だろう。
(”writtenafterwards”はこれが判明した時点で自分たちの立場との大いなる異差とギャップを知り、理解しそれが今回の彼らたちとは当然ながら、誰が見ても理解出来る差異ある結果としての作品製作へと、大いに可能性ある方向性を感じ始めた、一種のトラウマ現象からスタートしたブランドであろうし、今後を注目。)
ここにも、日本メディアの表層のみの教養亡き、『虚飾の上塗り』を只、ただ煽る浅はかなる行動が読めるし、日本メディアの外国かぶれをうまく手玉に取った連中の、彼らなりの強かさも読める。彼らたちのエヂュケーションにはそれら以外には何も感じられないものが大半の展示会。海外からの参加したデザイナーと称する連中も何にも”着て頂ける服”など作った事も無い、当然であるが『馬子にも衣装』とでも言えようかなる存在として集められた輩たち。彼らたちも類友でしかないコンプレックスの固まりの連中がこの企画に飛び乗ったまでのウラ現実がある。

 実際にアントワープのアカデミィーはレベルが低下してしまっている。
これは既に以前のサイトでも書いたのでそれを参考に、現在はそれよりもひどくなっている。
 先生たちが21世紀に入って以降、パリの向こうを張って大いなる勘違いしてしまった事と、最近では日本人学生の親たちの金に翻弄されて、勘違いさせられてしまった結果であろうか。それに、この街は決して、モードのキャピタルには成れない田舎町でしか無い事が理解できなかったこと。パリとの距離が存在してこそアントワープがアントワープであり得るという事が忘れられてしまった。すなわち、この街には”エレガンス”が生まれ得ず、現在ではロシヤ系資本が大いに幅を聞かせ始めた狭き街。今度のヨウジのこの街のショップオープンも『オリガルヒ』が新たなバッカーとして一役を。教える側の先生たちの金銭感覚の不透明さが退職者を出し、変わった先生も残っている先生の幾人かもどこかでアルバイトをして現実を勘違いしている様と性。その受け口が『SCAPA』であり幾人かの日本人学生の親の弱みである。
 その証拠とも言える一つとして、ここ2年間のこのアカデミーのトップ点数で卒業した生徒たちが他のファッションコンテストに出展してもメインの賞が貰えなかったという現実。Taroのアントワープでの4年間もモードにおける『オリガルヒ』学生だった。先輩が独自で開拓した工場を金で使い、生地屋も自分で探さずに誰かが使っていいものをこれも金で使った結果の卒コレ。”金さえ有れば”の世界観が既に、ここにもというアカデミーの一部としての今年の卒コレであった。
 反面、今年の学生でもトップを取った学生よりも実力、センス技量と性格の良い生徒が3年生にも幾人かいた。彼らの実力はやはりすごいものが在り決して、『表層』だけで作品としての服を作っているのではなく、彼らなりに持ち得た美意識による『深層』が全体のバランスと合い成ってのある種の超越した『美』を生み出していたもの、セルカン。先の、T'Sで大賞を貰ったエックそれにヘヴェンやロマン。彼らたちもエトランジェ、トルコ人でありタイ人やフランス人。筆者は今年では特に、セルカンとヘヴェンの造形美への執然には脱帽。これは流石アントワープと、いにしえの僕が審査員をさせてもらっていた頃の、アンジェロ時代を彷彿させてくれた。彼らはウオルターとその一派を超越した美意識と感性と造形スキルがSo-high, So-modern &So-Elegance!!! そして、So- Emotion'!!!!!!に、彼らたちは確実にその工芸的センスとスキルが学校的プロパガンダ作品よりも本質そのものの美と明日という未来を造形していた事がすばらしく感じた。ウオルターがモード科の主任教授に成った事はこの学校がより、エレガンスから距離を、即ち、パリから、距離を再び持ってしまったと言う現実に終わらないでほしい。
 
 3年前にクリストファー、(卒業後、先輩、バーナードの紹介でロンドンのヴィヴィアンのアトリエでご主人のアンドレアのアシスタントをしていた。)と一緒に最高得点を取って卒業した瀬尾英樹君は今、パリのアズジン-アライアのアトリエで日本人で初めてのアシスタントとして、今ではビザも取ってもらってがんばリ、アズジンに大切にしてもらってとても生き生きと働いている。在校時代には彼もやはり日本人学生タイプの典型であり、ストリート系のウオルターに憧れて入学した生徒。事実、ウオルターの店用のT-SHIRTのプリントデザインをして彼の店に協力していた。が、今ではアズジンのところで働くというチャンスを得てから、モードの世界が全く違うところ、対峙したところに本来の服を作ると言う本意の軸性と意義性と両義性が在る事を学び、知ったと僕に話してくれた事が印象的であった。アズジンが今でも自分でパターンを引きトワレを組み、アトリエの誰よりも仕事をしている時間が長いと言う現実のさなかで働ける事に感謝している瀬尾君のこれからに心が引き締まる。

 アントワープアカデミーもグローバリズムの構造をいち早く手中にしてしまった結果がこの現実であろうか?
それがこの東京へまでも、ここに彼らたちのコンプレックスと焦りが。

注/『オリガルヒ』新興成金財閥;(ロシア語)
 
/文責;平川武治: 

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「 東コレ雑感ー『TOKYIOーCOMPLEX』ー傍観者の眼差し-2」
  ”ヨーロッパで出会った新人たち@21_21”


 外国人勢について思ったこと。総じて感じるのは、「なぜ日本で?」ということ。この東京という都市に彼らが思っているような「入口」はない。彼らを育てるようなジャーナリズムも存在しない。そしてそれゆえ、東京コレクションは完全に機能不全に陥っている。東京という都市にいる限り、彼らはただ消費される存在である ということになぜ気づかないのか?現に今回の展覧会、そしてそれに付随するデパート.ファッションショーによって、彼らはもはや「使い古された」感は否めない。彼らは一体何の目的で、何をお土産にしようと思ってはるばる極東の都市にきたのか?

 HUI-HUI。コンセプトは「コミューン」。彼女たちはファッション学校を卒業したのか?美大の学生がファッションを作ったような印象。服作りの部分もアートとしての視点、切り口としての部分も中途半端。コンセプトの「コミューン」について、服のデザインコンセプトとしてだけではなく、持続的なプロジェクトとして何か意 識しているのかと聞いてみたがそういう訳ではないようだ。彼女たちの「コミューン」はただのおままごとに過ぎない。ヨーロッパ人として歴史的にも「コミューン」の持つ意義、背景について皮膚感覚として知り得るはずのドイツ人達がなぜこれほど表層的な捉え方しかできていないのか不思議でならない。一体何を学んできたの か?「不可」をつけたい。
 イスラエル人とグルジア人のペア、STEREOTYPE。部屋内部の四方の壁にはロッカーが並べられ一つ一つのロッカーに服が吊られている。これらはステレオタイプな人々について彼らなりに考え、再構築されたものだ。ロッカーにはそのステレオタイプについての写真と説明文があった。服自体をしっかりと見せる工夫はされておらず、コンセプトありきなのかなという印象。
しかし、そもそも「ステレオタイプ」というのはそれ自体何らかの切り口というよりも概念に過ぎないのでは?「ステレオタイプ」といえば数年前に日本のサラリーマンをモチーフにしてイェールの賞を獲った学生がいたが、この展示でされていることとその学生とは比較にならない。この展示でされていることは、例えば「中国人 労働者」や「未亡人」に対する自分たちの「ステレオタイプ」な印象について一問一答しただけに過ぎない。単にイメージをザッピングしてそれらを先入観でもってカテゴライズしてみただけでは?「ステレオタイプ」に対しての考察やそこに基づいた再評価はされていない。例えば、彼らがイスラエル人やグルジア人であるならば 思うこと、マイノリティとマジョリティの境界の危うさ、両概念の相互逆転の恐ろしさや儚さ(マイノリティはいつの間にかマジョリティを形成し、マジョリティは一瞬にしてマイノリティへと押しやられることの恐怖、無常、そしてその悲劇、もしくはユーモア)のようなものを切り口に「ステレオタイプ」という物語を表現する という選択肢も考えられよう。彼らがやろうとしていることはソシオロジーもどきのザッピングにすぎない。他の作品の写真を見ると服にはユーモアが感じられそれなりのまとまりもあるのに残念。彼らはあまり政治的なコンセプトのたて方が得意でないにもかかわらず好き好んでそれをやっていると思う。執行猶予で「可」。
 POESIEについて僕は何も読みとれなかった。写真やインスタレーションもある一定の完成度はあるような感じもしたが、心に残るものはなかった。写真はイメージ紙の切り抜きのようで、インスタレーションはどこかで見たウィンドーディスプレーのようだった。他の人の感想があったら聞いてみたい。評価は「可」、というより「可もなく不可もなく」。

 総評すると、アントワープアカデミーとはこんなものなのかということに尽きる。奇しくも展覧会は一時期バブル的な評価を受けていたアカデミーの凋落ぶりを知らしめるものになろう。彼らはファッションデザイナーと名乗りながら服作りそれ自体を見つめていない。ファッションに付随、派生するものに興味があるか、それらに捕われすぎている。
 アカデミーのカリキュラムは決して民族衣装、歴史衣装のイメージ・ザッピング、リ・スタイリングを学ぶためのものではない。ソシオロジーやポリティクスのファッションへの安易な援用を奨励するためのものではない。すべては「服作り」への眼差し、のみならず自らを取り巻く「世界」への眼差しの基本的な考え方を身につけさせるためのものであったはずだ。服というものの意味性、境界を疑うこと。ものごとを常に歴史の中で相対化して捉えること。ものごとを地政学的な視点 から捉えること、のみならず、ものごとの発生、変容、消滅というものはすべて「場」の力学によるが故に、場所性というものを軸にしてものごとを捉えること。そして、場の位相が変われば時間の位相が変わることを知ること。これらを知らなければ現在にいながら未来を見つめることなどできないが故に、ある一定の水準以上の アートスクールやファッション学校は似たような教育手法を採っているだと思う。アントワープでこの教育システムが機能しなくなったのは学生の持つ文化的素養の質の低下もあるだろうが、それをカバーするだけの教員の質も下がったことによることが大きいだろう。カリキュラムの主眼とすることは経験やある種の「姿勢」でしか教えることができない。これは「躾」の問題である。アカデミーがある種のオーソリティとなってから服作り、そしてファッ ション産業というものに対する本質的な問いかけをやめてしまった以上、新たな展開は望むべくもないだろう。そしてこれはアカデミーがファッション産業の一機構として内部化されたことの当然の帰結でもある。外野としては、ここ10数年でのヨーロッパのファッション学校そしてこれらの学校の卒業生のファッション産業におけ る一連の流れについて検証をすべき時が来ているようだ。

傍観者;Josh Matsuzaki

投稿者 : editor | 2007年09月11日 23:48 | comment and transrate this entry (0)

2007年09月10日

東コレ雑感ー『TOKYIOーCOMPLEX』ー1 & 傍観者の眼差し

 
先シーズンは見る機会を逸した東コレ。
始まった、今シーズンを幾つか見始めてみると、案外見なかった事が”健全”である事に気がついた、変わらぬ東コレ。
 何が変わらぬかと言ってしまえば、これが結論になってしまう東コレの実態。
招待された外国人ジャーナリストと称される人たち、(この招待レベルも年々レベルが低下した人材しか来なくなっている。)そんな幾人かの現地仲間たちと会話しても彼らたちが一同にして本音を言う事は
『「No originality & something」「No intellectual」&「No emotional」But 「So interesting material」That's all !! 』
これが毎年続いているのだから見なかった方が”健全”と言えてしまうまでの東コレ。しかし、当事者たちとそれを傍観しているメディア関係者たちの『大い なる勘違い』もここまで国家予算を使ってしまって、そのレベルでやってしまえる環境そのものに当たり前感と義務感を持ってしまっての継続のみは誰のため に何のためにが年々希薄になってゆくのみ。いわゆる、『マンネリ化』『便秘』状態の『ゲットー(囲われた)イベント』でしかないのが残念だが現実。はっきり言って、この程度のレベルのファッションデザイナー人材であればいつになっても世界に通用する創造性を発信出来うるレベルの人材は生まれてこない。『東京という生簀の中での彼らレベルでのいわゆる、『虚飾の上塗り』作業でしかない。地元の東京でさえも、『誰が着たくなる服なのか?』『誰に着て いただきたい服なのか』『誰が財布を緩めて買ってまでも着たい服が何着ショーで見る事が在るのか?』『店頭に並べられた時のプライス感は?』など等、、、
 実際、東京を面白いと感じ来日する外国人たちは決して、間違ってもこのレベルを楽しんでいるのではない。この事にも目覚めなければいけないのは誰なのだろうか。自分たちのお金を使って興味ある事を楽しみにくる彼らたちは時代を感じて、未来を探り、ビジネスを考えた時、『アキバ』であり『ウラ原宿』であり『109』で在り『オタク』という新しさと伝説となった『JAPANESE AVANT-GARDE』それに、東京の『夜』でしかない。決して、現在のこのレベルの『東コレ』ではない。彼らたちは第2、第3の『UNDERCOVERやJUNYA』を探しに来ているだけである。

/文責;平川武治: 

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「 東コレ雑感ー『TOKYIOーCOMPLEX』ー傍観者の眼差し」
 ”ヨーロッパで出会った新人たち@21_21”

 ヨーロッパのファッション学校を卒業した若手たちを紹介する展覧会「ヨーロッパで出会った新人たち」について、この小規模な展覧会の構成は大きく分けて3つ。まず、窓際のコーナーに彼らそれぞれの作った服が人台に載せられてまとめて展示。中くらいの部屋では彼らが自分たちの服をスタイリングして撮ったイメージ・ヴ ィジュアルの展示。大部屋では、2×4で作ったホワイトキューブが5個ジグザグに仮設されていて、 1チームにつき一つの部屋でインスタレーション。外壁にはそれぞれが作った映像が投影されていた。おそらく、卒業審査でも同じような展示形式がとられていると思う。展示全体の雰囲気としては、「若手デザイナー」というよりも美大・芸大の卒展のような雰囲気がした。そこで、個別の感想については講評風に書く。評価は、秀、優、良、可、不可の5段階。

まず、MIKIOSAKABE。等身大フィギュアのアキバ風ディスプレイ。彼は日本人だが、外国人観光客が一見でトキオ・マイクロポップに飛びついたような趣き。完全な消化不良。表面的というより表面も見えていない。何かへのまなざしというより、葛藤、圧倒。彼自身のブログを読むと、東京での発表、東京という環境に戸惑い、東京におもねっているのがよくわかる。なぜ、自分のルーツを信じ、それを貫き通さないのか?それこそが僕たちの希求するところなのに?外国に留学してきて日本に戻ってきた時、ある意味で浦島太郎的な存在となってしまい、日本の構造の中に溶け込むことができないコンプレックスから二次元の世界に逃げ込んでしまっているようだ。彼がオタク的な題材を選び取ったというよりは、彼自身オタクなのだとはいえまいか?(彼だけでない。僕はこの展覧会の参加者は皆、浦島太郎である。)
たった数週間東京で過ごすだけでそこから何らかのリアリティ=その場所が持つインディジャナスな空気感、時代感、身体感、記憶、欠落、ユーモアetcを読み取り、咀嚼して自分なりのアウトプットをするというのはそれなりの実力が必要だ。しかし、彼にその実力がないのは明らかだ。彼自身、自分にその実力があると思うがゆえに今回のテーマ設定をしたわけではないだろう。自信の欠如、迷走の結果であることは言うまでもない。自らを取り巻く環境や背景への洞察、分析、そしてそれを自分なりのやり方でどう構築していくか。自らのルーツ=眼差しを読み解いていくこと。それこそアントワープのファッション教育の主眼であったと僕は思うのだが。申し訳ないが、僕の感想は『不可』。彼はまだデザイナーとしての準備ができていない。

次は、WRITTENAFERWARDS。すべてオフホワイトの服、白い部屋。彼らの部屋の印象はある意味、「普通」。強烈な匂いやこちらに問いかけてくるような何かが明確に伝わってくるわけではない。インスタレーション全体としてもそこまで密度=世界観があるわけではない。しかし、見えにくいが確実に「中身」はある。特に、 人台に載せられた服を見るとそれがよくわかる。服は全体としての素材と量感のバランスがあり、細部まで意識がいっていて、全体的な密度、空気感がある。素朴だが、彼らなりの時代観に「品」が感じられる。そこに、彼らが考え、服を作ることに対して試行錯誤した痕跡が垣間見える。
今回展示した作家の中で唯一、自分たちにとっての「服」を感じさせてくれたチーム。しかし、表現としての「強さ」はまだはっきりと表れていないので「良」をつける。ただ、この点の未熟さについては作家二人ともはっきりと気づいていて、自分達なりの課題を見つけていたようだ。まだ芽は出ていないが確実に種は蒔けた様子 。

TAROHORIUCHI。彼の作品は悪い意味で優等生。ある意味で早熟なのだと思う。しかし早熟が悪くしか作用していない。彼は最終的なスタイリングの部分、つまり出来上がった作品を見栄えよく見せる方法を少なからず知っている。そして、その部分に多くの労力を費やしている。しかし、もっとも肝心な部分、彼のオリジナリティ=クリエイションの核心はあっけないほど何もない。本当に何もないというよりも、どうやら、彼自身無自覚にそこから逃げてきたままここまで来てしまったようだ。彼は早熟で賢いが故に、それらしき「完成」「成功」を最初から求めすぎている。あとは彼のイメージするそれらをトレースしているだけ。彼がしたいことは本当に「服を作ること」なのか。否。彼が本当に服を作りたいと思っているならば、最低のクオリティでもよい、自分の足で立って、転びながら自らのクリエイションをしていくべきだ。クリエイションというのは文字通り、頭でなくフィジカルな部分でのアクション=身体性からのみ生まれると僕は思う。彼はいつ自らの根本的な「過ち」に気がつくのか。難しいと思う。「不可」をつけさせてもらう。

傍観者;Josh Matsuzaki

投稿者 : editor | 2007年09月10日 21:40 | comment and transrate this entry (0)

2006年12月07日

もう、熟して来た頃であろうか?【巴里・コレ】とはどうだったのか??

 [ PARIS COLLECTION  ‘07S/S ]の新しさとは?

 “中国”でスタートした今シーズン。
このように、中国のデザイナーでスタートするのも在る意味、今後の新しさに。
ディディヱ&シルビー・グランバック兄弟コンビが担当する今シーズンのオープニングデザイナーは中国人デザイナーはJEFEN。
かつて、日本がビギ・ニコルで沸いた80年代にニコルで働いた経験を持つ彼ももう中年デザイナー。JEFEN は日本の影響を受けている。コーディネートファッション、ヤングマインドトレンドのフレームの中でチャーミングに。今の中国のマーケットを熟知した結果、もう少し、分量/ボリュームのデザインが欲しい。

 初日の日曜日と明日の月曜日はこの国のユダヤ教を信じているユダヤ人たちの祝祭日。
カレンダーを読んで見ると、この両日に、中国、コウリャン、ユダヤ教に関係ないドイツとアメリカそして、日本人デザイナーが詰め込まれている。
 朝、レクレルールのオーナー、アルマンド夫妻に会う。
彼らたちも、「TAKE! We can’t work today & tomorrow, so sorry. See you Tuesday. 」
即ち、彼らたちも今日と明日は働かない、したがってショーにも行けないからあさって以降で会おうよ。と言うことである。あの、ミセススージー・メンケスもこの両日はお休み。多くのバイヤーたちもこのような状況であろう。これが現実である。

 今シーズンはより、「身体つき」を大切にした所での新たなシルエットをどの様な「分量byボリューム」をどの様にデザインするかがディテールをデザインするより大切な時代。そして、自らが投資して美しくなったと想う身体つきを思い切り美しく、優雅に、軽やかに贅沢に品良く見せること。そのために使われた素材はシフォン、ジョーゼット、スムース等の身体に纏いつくまでの薄物高級素材とストレッチ素材の再登場そして、トランスパーレントな素材が多く、目に付く。プリントはオプティカルな要素を持った水玉、ボーダー、ストライプもの。これらも身体のシルエットでオプティカルな効果を遊ぶタイプ。
軽い、薄い、気持ちいい、美しい、耀き、贅沢感そして、オーセンティック、エレガンス、ロマンティック、シンプル+Somethingと感じられた今シーズンの形容詞。
身体のシルエットをより、繊細にコケティッシュに感じさすかのための美しい脚線美を見せるシルエット、「ハイ・ウエスト」(これも先シーズンからの継続トレンド。)
と肩にポイントを置いたNEW SILHOUETTE。
 
 遅れてきた新しさが一番鮮度が在ったのだろうか?
A.L.マックイーンは先シーズンに僕が提言した【太りすぎた女性】を大胆不敵にクリエートした頼もしきデザイナー。(彼と比べると、GIBO-H.チャラヤンは【どうした、君もか?ショービジネスへ向かった一人になってしまったのか?】と言うまでのショー。素人受けを狙った面白さは即、メディア受けショー。)
 リー・マックイーンのあの大胆不敵さはゲイの面目躍如たるもの、今シーズンは共感。崩れゆく身体のためのボンテージ、フェティシズムだから、ボディコンシャス。


 一方ではマーケットを狙っての先シーズンから続く、18世紀フランスロマン主義(映画、M.アントワネットに影響?)が 出揃う。
 
 そして、もう一つの新しさとしてはスピチュアルリズムが。(多分、ゴチック・ロマンを通り過ぎた先にこれが来るのだろう。映画、VIRGIN SUICIDE的な、)性差をプロテクトした保守的なお行儀のよいカソリシズムに満ちたシルエット。(デヴューコレクションを展示会で発表した当時のV.ブランキーの白いロング丈のワンピースコレクションを思い浮かべる。)これはTAOにも、今シーズンのトリコにも読む事が出来る。

 シーズンのテーマコンセプトは「美しくなった身体をより、美しく贅沢感で遊ぶ。」でも、「PROTECT/PROTECTION」は大切な現代共通のファッションに対するコンセプト。ストリートから生まれたフードはもう一度ラグジュアリーなモードの世界へUターン。
ここで注意を引くのはこの発想を肥大化して考えてみると、
以前、90年代後半からのモードの流れは、「服やデザイナーのブランドそのもので遊ぶ時代性」から、今シーズンは服で遊ぶのではなく、自らが投資して美しくなった「自分の身体そのもので遊ぶ」と言う時代観へと進化(?) した。これによってデザイナーの在り方や立場が変革するまでの可能性ある「新しい時代へ」と言う事が考えられる、興味あるシーズンだった。
 
「LAXUALY STREET by New volume & Glittering Gold.」/BALMAN
「女は華」、投資した美しい身体をより、ロマンチックに妖艶にトランスピアレントな素材でラッピング。グレーッシュなブラウンと言う色もいい。/R.OWENS.
「卵」のバランスの美しさをブルーベルベット風に、サークル&トポロジーック。バランスを矯正するショルダーパット。/M.MARGIELA.
女は挑発を楽しむ。肩を積み上げるまでにウエストを絞る。素材の自由さ。/TOGA
自分自らのオリジナル・スタンダードをパズルのように組み換え構築したフェミニンなオタク・モード。B.ブルンネルなマスキュリムシャツと労働者階級をブルジョア風にコードのメタファー。/淳弥
「美しい女」は恥ずかしさを楽しむ。/S.WAUCHOB
ドット、一つで豊かに穏やかに着る女性がバランスを遊ぶ。精神性の潔さが強い女には必要。/CdG
女が持つ「かわいらしさ」は不変性なるもの。オプティカルな効果をこのデザイナーの世界のプリントとクラフトテイストで堂々と楽しんだ。/C. TUMORI
ロック少女はロックエレガンスをより、グレースフルに。/Ann Demeulemeester
浮世絵に見る日本的布の流れを西洋的なクチュールパターンで構築した確かな技を感じる服はインテレクチュアルな女へ。/G. LINS(インスタレーション)
HERMESらしさでないものは新たな顧客向け?セレブ・ブラックビューティーへ。/Hermes by J.P.G.
そして、好きだったコレクションは、
VERONIQUE LEROY、美しい女たちへ、「肩」がポイント。幾つかのタイプの違ったショルダー・シルエットを確かなパターン力が生む上品で優雅に構築したとても確りとした良いコレクションを堂々とオーセンティックな中に鮮度良く見せてくれた。彼女はコレクションの2週間ほど前に、女の子を出産し新たに、ママになった事がより、彼女の世界に余裕と自信を見せた。
UNDER COVER、真正面からいぞんだシンプルしかし、美しく艶を感じさせる、着た女が自慢げに自らの整った身体を匂わすまでの着たくなる服。彼たち世代のストリートテイストのユーモアやパロディがエレガンス、シック、セクシー或いは、エモーションそして、クラスを感じさすほどにモードを犯す極めのデザインはバランス良くまとまり、着てみたくなるであろうと静かに激しく挑発的コレクション。
そして、先述のA.L.マックイーン。
若手では、
MELODIE WOLF、今シーズンはインスタレーションで見せたコレクションが規模もそんなに大きくはないが時代を感じ読んだ充実したコレクションだった。
それに、MINA PERHONEN も悪くない。確実にこの巴里に自分たちの世界観をモード化。ドメスティックなデザインの服は温かみを伝え、彼らたちのプリントデザインの旨味でヴィジュアル化。

 だが、多くの若手デザイナーたちのサロンで彼らたちの商品としての「服」を見ると、売る事のみを意識してしまったために、先端の時代観をコンセプトにデザインを行う方向性をまだ確実に掴んでいないか躊躇しているデザイナーたちが多かった。いつの間にか、シーズンを重ねるごとに彼ら自身の世界観がそのコレクションに表情として現れているものが少なくなって来るとも言える。

 アントワープ組みは時代についてゆけるか?
V.Branquino,A.F.Vandevorst,C.Wijnants,H.Ackermannたちはどうしたのか?彼らたちは完全に時代観がずれ女性観が古くなって来ているデザイナーとなり始める。辛うじてのB.Pietersは学生時代から何も出来ずにセンスと夢へのモチベーションだけで、いわゆる、金に物を言わしてのデザイナー活動が功を奏し始めたところ。クリスチャンに続いて彼ブルーノもアカデミーの先生になるという。(何が教えられるのだろうか?)
 当のアントワープでは、エンペラーD.V.N がアメリカンラグジュアリーで商売へ走っているのに尊敬の眼差しの組みとJ.サンダーをファッション・ディレクションしているR.S組み。この腰巾着がアントワープに居れなくなったH.アッカーマン。ウオルターは主任教授とSCAP・SPORTSのデザイナーで落ち着きを、このような閉塞的な二分化状態が小さなファッション村の現実である。
その自分らしさで勝負しているのは、Ann Demeulemeester、B.Willhelmのみ。

 次回は、もう少し、CgDを考察してみたい。
文責;平川武治

投稿者 : take.Hirakawa | 2006年12月07日 19:15 | comment and transrate this entry (1)

初めまして田中と申します。
突然のコメント失礼いたします。
コメントできるほど、精通しているわけではないにですが、
普段より、疑問に思っていることがあり、解決したく思い
投稿しております。
なぜ、一流デザイナーは、女性の美しさを定義して、
表現できるのか?
それは、ゲイであることや、幼少時精神体験など、
一部のコンプレックスがもたらすものなのか、もしくは
関係なく、努力などで構築されたものなのか?
よく分かりません。
美しさの定義はなぜ、全世界で、共通してしまうのか?
どうしても、そういう人たちに追いつけないのか?
追いつけないのであるなら、新たな定義を生み、歴史なく
それは受け入れられるのか?
素人の考えで申し訳ありません。ただ洋服がすきなだけです。

投稿者 : Sayuri Tanaka | 2007年01月11日 15:07

2006年09月28日

ベルギィーのGANT・アカデミィーを中心に、

 [ 欧州のモード系学校の卒業コレクションシーズン;]
この時期、6月はヨーロッパのモード系アカデミーの卒業コレクション時期である。
今年は多くの学校を訪れなかった。
アントワープとその隣街、ゲント。ここも古くからのアート・アカデミーが在る所でアートの方が有名校。
訪れようと機会を狙っていて、今回初めて訪れたせいもあるのだろうが、結果的にはゲントの方が新しい時代とその変化を自分たちの上質な視線で感じて作品を丁寧に作っていたと思う。この学校の先生たちの多くはアントワープ出身の人たち。日本にも知名度があるのは、SARAH CORYNENであろう。主任教授はマルタンの3年後のPIETER COENE。卒業予定者は7人。基本的な授業はアントワープと同じ。1年生が基礎造形。2年生が『歴史衣装』3年生が『民族衣装』そして4年生が『自分の世界観』。
 このアカデミーで今年、特出した作品を作っていたのが、CLAEYSIER CHARLOTTE.メンズデザインで少年の初々しいイノセントな感覚の作品が時代性をもよく感じた上での上手なまとめ方をして大変に、エモーショナルで感覚的に新しさ感じさすまでの作品を見せてくれた。当たり前のメンズ服のアイテムを少しバランスを組み替えた程度のいわゆる『腹八分目』のデザインの旨さ。決して、世間のトレンドを追ったものでも、形骸的なそれでもなく本当に新しさを感じ、着てみたくなるほどのパンツ、ジャケットそれにベストやカーディガン等。廃校だった空き地での、丁度、都会の隙間で遊ぶ少年とお兄ちゃんたちが草サッカーをしているインスタレーションも頭のいい手法だった。多分、バランス感覚の良い生徒なのであろう。ウイメンズものでは、MRS.PEGGY GUGGENHEIMをイメージモデルとコンセプトに以外と上質なクチュールタイプのコレクションをした、Christophe Van Liedekerke君。ラグジュアリィー感覚とクチュールテイストを大人っぽくミックスして構成されたコレクションはそのエレガンス度がもう少しあれば本当にいいコレクション。思い切ったショルダー・パターンが着る女の身体つきを上品に見せるものが好きだった。しかし、本音で、このアカデミーは今後この調子で行けば、伸びる学校であろう。
 それに引き換え、今年のアントワープはその街環境ががさつになってしまったこともあってだろうか、それとも、自分たちの自己満足が生徒たちにも出て、その分時代の変化や社会の変化具合を作品に取り込んだものが少なく、悪く言えば『ショーのための作品つくり』の前世紀のもの。この学校の特徴としての、ショーでの見せ方を考えた作品つくりがもう、時代性と会わなくなって来たのだろうか?その関連でもあろうか、ウオルター先生が元気なく、自分自身のコレクションも止めてしまいリ・ニュ-アルしたショップも余り売り上げが芳しくないと聴いた。したがって多くの生徒の作品の『創造のための発想』が自分たちの身近ないわゆる、『サブ・カル』系、漫画、ゲームそしてアニメとMTVからの引用が目に付く。その分だけ、誰が着るの、着たくなるのと言う衣装感覚のものが多くなる。日本人2人の男子生徒のものも結果、前世紀の発想でウオルター好みのショー受けとコンテスト受けを狙ったもの。しかし、これらが高得点を貰う。誰が着たくなるのか、買いたくなるのか、誰に着て貰いたい服なのかがやはり、前世紀感覚。東洋人初めての女性卒業者としてのムラタアキコのものはこれらとは一線を引くもの。今後、この学校の先生たちも影響を受けもう少し、『服』そのものの在り方とそのためのデザインすることをとは何か?を時代の変化と社会の変質に沿って学ぶことを改めて考えるだろう。
 多くが、まだ20世紀型発想の作品群。
イメージの発想がイージーである。自分たちの身近さとしての‘90年代モノとゲーム、アニメそれにBD.
したがって、誰が着るのと言うもの、男はマッチョ。女はビッチな感覚のものが多く目に付く。
インテレクチュアルを感じさすもの、エレガンスさを感じさせるものが少ない。
モードのルーツが浅い。
 “ZAPPING”や“SAMPLINNG”が目立ちすぎる。したがって『表層的』に目立つものが主流。
そのため、構造体としての『身体』をそして、着る人を考えたデザインが少ない。
因って、「3D」, 「立体」で服を考える事が弱くなってしまっている。パターンが美しくない。
装飾的要素が強いものへと、足し算のデザインになってしまう。これは日本人が旨い所。
したがって、この学校で3年生に残れば、日本人の点は良い。
『メディア受け』を狙ったものが増える。
結果、このアカデミィーの先生たち、教える側が新たな21世紀とはどのような事が変化したのかを熟
知せず、『時代性、社会の変化』を学ばない、リアリティが薄く理解していないように感じられてしまう。
従って、かつての時代を引きずっている感じが強く今年は受ける。

投稿者 : take.Hirakawa | 2006年09月28日 00:29

2006年09月15日

私的総論に変えて、「今シーズンの東コレをどの様に感じたか?」

 結局は会場、「東京国際フォーラム」と言う名前と立地条件とその規模と設備そして、見栄えとに翻弄され、中枢的な条件である「時期の変更」がもっともらしい理由付けによってそれぞれの関係者たちの仕方ない現実性から発せられた今シーズンの東京コレクション。

 JFWに委ねた結果の開催時期の変更はこんな簡単な理由と言うまでのものが現在の東コレの在り方であり、その仕組みの恐ろしさであり、それに乗っかろうと焦る東コレ・デザイナーの「皆で渡れば怖くない方式」。それらを持ち上げて大いなる勘違いをさせるまでの物々しいだけで殆ど、何も解らないお兄さんたち、お嬢さんたちがスポーツイベント宜しくユニフォームを着せられての会場セキュリティ等が現代日本の「金・カネ」の食潰し方そのもの。それに乗っかろうと、おこぼれを貰おうとする諸メディアとそれらを仕切る広告代理店の貧しいクオリティ合戦。それら東京イベント的現実が与えたフレームの中でのコレクションはどの様に今シーズンは進化したのだろうか?

夏の始まりのあの、「サッカー・ワールドカップ」が日本の現実の総て。
続いて起きた大いなる勘違い兄弟の後味の悪いプロ・ボクシング試合。
これらは仕掛けられたフレームとしての「微温湯」の中でしか何事も事が行われない、出来ない、したくない、してもしょうがない現象のミス・マッチ現象。敢えて、下品な言葉を使うと、「勃起すべき時にも勃起しない。しなかった。」
自分たちの見掛けを作ってくれている環境としての社会構造の中でしか、何事も事が進まない。
そんな仕掛けられ、作られた全く、操作された社会環境の中でこそ、自分たちのアイデンティティが存在するというまでの過保護な元での安堵感の発想での生活。例えば、深刻な問題でもあろう、セックスにおいても作られた風俗と言う環境でしか事が進まないという現実面もある。
総ての現実はこの仕組まれた環境でそれぞれの事が起こるというまでの時代性。
仕組まれた現実性の中か、与えられたバーチャルな仕掛けでしか生きる事が不得手に、邪魔くさくなり始めてしまった21世紀の「豊かなる難民たち」の日本と言うエキセントリックで恐ろしいそして、凄い国。
これはその程度の差は在るが現在の21世紀の世界、そのものでも在ろう。が、
しかし、日本は特殊。
すべてが、モノ中心。そのモノを商うための消費社会構造の元で国家が回っているという特殊性はそのバランスの悪さだけが人々の心をおかしくし、寂しくも虚無感さえも生む国。
いつの間にか、人々たちは与えられらた「微温湯」の中でしか自分らしさを見つけられない現実。
では誰が?
この様な「微温湯」社会を作ったのだろうか?誰がコントロールしているのだろうか?誰が儲けて、のさばっているのだろうか?
単純には、「メディア」が作り、操作した現実が既に、社会になってしまっている。
その日本メディアの現実とは、多くの元ノンポリたちによって視聴率とスポンサー料によってコント-ロールされ仕組まれ、結果、仕掛けられ作られたレベルの低い偶像を粗製して、構造化された「微温湯」。
気骨と言う言葉さえ死後と化した末梢神経的なる商業主義メディア中心の生簀。

箸休め」
 未だ、「入りとノリ」に始終する東コレ。
「入りとノリ」を作るのは簡単、先ず、開催日を火曜日の夜にする。
火曜の夜は美容師が来てくれる日。いまだにこの美容師さんたちのファッション・パワーはこの國の特有さ。そして、招待状を芸能人スタイリストとCFスタイリストたち、アカ文字系雑誌スタイリスト中心にもちろん、「微温湯」メディアを騒がしている芸能人、有名人にも、オカマにも来ていただくように声をかける。知的ジャーナリストたちへ声をかけるよりはヤンキー上がりがいい。数は、ちょっと、多目に配ること。知的さがなくエロっぽく解りやすい服、これが秘訣
質問」
しかし、税金を使って、鳴り物入りで招待したスージー女史の書いたものが招待した側のJFWから公式に発表されていないということも変な世界であるのだが、どのメディアも取り上げていない。メディアコントロールがお得意の談合式で入っているのだろうか?(もし、どなたかが翻訳なさって発表していればすみません。うれしいですが、)

 この質問は後日、この様な回答となって頂きました。
□本国ヘラルドトリビューン紙上で、メンケス氏の批評は載っています。
それに対してJFWによる公表はございません。なぜなら、ヘラルドトリビューン
紙の記者として、来日、独自にJFWを取材されたからです。JFWが招待したわけで
も、もちろん税金を使ったわけでもありません。
各誌、紙より取材された内容のコメントを拝見した限り、まだ未熟な面はある
が、日本のオリジナル性をより強調したこれからの飛躍に期待したい、という内
容でした。(JFWのプレス担当の川島さん談。)

後半」
今シーズンは僕の方で選ばせていただき見た。
出来る限り見せていただくという方法の無意味さをこの3シーズンで味わったからだ。
今シーズンのように、巴里やミラノの前にやらなければならないシーズンのデザイナーたちの覚悟はそれなりに大変だったメゾンもあっただろうし、無関係な所でのびのびと出来たメゾンもあっただろう。
当の本人たちであるデザイナーたちには、ある、与えられた条件としての「時期の変更」はそれなりの結果を生まなければいけない状況提供にもなったデザイナーも居れば、他方、ただ、「入りとノリ」だけで喜んでいるという変な屈折したデザイナーと彼らたち周辺の仲間意識状態の現実がショー?と言うものも未だ、有り、などなど。
彼らたちの多くのブランドはどれもそんなメディアがターゲットと意識した度胸ある、商売人デザイナーたちの大いなる勘違いショー、そこには見事に「微温湯」に飼い慣らされた出目金たちが無表情で無感情で泳いでいる。
掛け声だけが「エモーション!」
そんなに今の日本は平和なのですか?
服の値段は上がるばかりなのに、人間の命の値段は下がるばかり?
そんな國でいいんですか?

付録的に」
東京の凄さは東京のみで通じるもの。
そこを僕の眼差しとしてみた場合、もう、巴里やミラノと比べなくともと言う論法が発せられるだろう。
この場合、大いなる勘違いをしてはいけないためにもそのレベルが肝心。在るべきレベルとは、「今の自分を装う」を創造するというまでの発想が現代のデザイン・スキル。
―『創造性と時代観としての問題意識と美意識がどれだけインテレクチュアルにイメージングされクリエーションされているか、それを着れる服化する時の技術とセンスのスキル。そして、着た人たちへ与えられるエモーション。』―を探して、、、、、、 

幾つかのパターンに分かれたコレクション。
* タイプー1;自分の世界を見せる。
当然、オリジナルな自分の世界観とその世界を見せるメゾンはやはり、数が少ない。
mintdesignsはこの世界でとても進化したコレクションを見せてくれたシーズン。全体感からクオリティを感じるまでになった。
自分たちの世界観でショーをやり、自分たちの服が誰に向けて投げかければビジネスが旨く行くかをも探る;THEATRE PRODUCTS。
もう一方では、いまだに既成メディアの情報を頼り、自分らしい世界を見せるメゾンもある。進化なし。取り合えず、ビジネス中心に考えられた自分の世界を無難に見せるショー;大半がこのレベル。
* タイプー2;自分の世界に広がりを見せる。
自分の世界に、SOMETHING NEWを加え作り拡げようとしたメゾン。;mercibeaucoupの宇津木えり。
自分の世界そのものにチャレンジして、さらなる自分の世界を見せたメゾン。;Ne-netの高島一精。
そして、自分の世界を時代観と自分が持ち得た技術的スキルであたらなる自分の世界を拡大し、自分自らの創造性を拡げてゆくメゾン;POTTOの山本哲也。
世界に通用する自分世界を自分らしくクオリティ高く知的な拡がりを見せるメゾン;SUPPORT SURFACEの研壁宣男。
文責;平川武治

投稿者 : take.Hirakawa | 2006年09月15日 18:11 | comment and transrate this entry (0)

2006年09月08日

ルプリ by 平川武治 JFW 東京コレクション‘07 S/S評論速報

07/Sep.;
Le Pli Diary  TOKYO Collections‘07 S/S by Take.Hirakawa 

POTTO
山本哲也
『エモーショナル。雲のように、風のように、』

 驚きを感じた。
今回、この様な手の内でコレクションを展開して来たとは。
静けさと安心と安らぎを着る女性たちへ、MY I HELP YOU?
自分の世界にチャレンジして、新たな自分の世界を見せてくれた。

その多くがメディア受けを狙ったド派手とノリのコレクションが主流の、
誰に向けて、何のためにが不明なスタイリスト受けを狙ったコレクションで粋がっている輩たちを向こうに廻して、堂々と自分がしたい事、出来る事を自分のこころの在り様として見せた今シーズンのPOTTO。
そこにはエモーションがデザインされている。

商売上手なメディアに出たがり無教養デザイナーと言うや輩たちはいつの時代もノリで勝負、口が巧い。奴らたちはそれを決まって、作品と称す。
ファッション業界に今、『元ヤンキー』が増えたのも一種、この風潮の現れなのか?
自分が持っているべき筈の自信がない、『服』が作れない、格好はつけられる。
こんなデザイナーたちはいつの時代からか都合よく『服』の心をも忘れてしまった。
当然であるが、『布とハサミ』が自分たちの商売道具である事を忘れてしまった。

『布とハサミ』が商売道具のファッション・デザイナーはその自分が扱う『布』を大切に扱いたい、
その『布』をこんな風にあの人に使ってあげたい、そのため自分が学び習得した技術でこんな感じの、この様な着心地のモノを、風合いのものを作れないだろうか?
こんな感じの時代にあった上質な『服』を仕立てられないだろうか?
ファッション・デザイナーと称する職業人たちの心意気さとはこの様なところから発してしまう
『MY I HELP YOU?』がその心。
決して、見せびらかしのためだけのお絵かきが『服』つくりではない。
『装い』のため。
どのような人に自分の作った服を喜んで『装う』ってもらえるかを密かに想い感じ喜びとするところに作り手としてのやまとこころが存在する。
POTTOの今シーズンのコレクションを見ていて改めて考えさせられた即ち、僕の感想がこれだ。

着る女性の『身体つき』を想う。即ち、肉体の存在を感じる。
その上で、『分量』を感じ、読む。
これが今の時代では一番直感的に時代観を感じさす行為である。
そして、トワレを組み、『布』と遊ぶ。
自分でいろいろな条件やルールを探り、求め、委ねて『1枚の布から』に辿りつく。
COVERINGとWRAPPING
その心の在り様は「心と身体をプロテクト」。
道元禅で言えば、『自心を自心で自由にする』が自然体。
花や鳥も樹も雲も風もこうして存在してこそが『自然』

今シーズンのPOTTOはこれを試みた。
彼自身の自らが修練し、習得して経験した時間と気持ちと体力を持って
自心で。
だから、堂々と潔く。

そのために、結果、少し体数が出すぎた感もした。
最後のプロセスとして、自分との距離感を持ってコレクションの全体像を再度見る必要さを憶えればいいこと。
当事者の持つ直感から、傍観者にもなりその距離感を持つこと、冷静さを持つこと。
『分量』の付け方に強弱をつけることも可能になる。
これによってコレクションの全体像は感じ、読めるそして、絞められる。
そこにエモーションのバランスが生まれる。
このプロセスはビジネスへ繋がる要因でもある。

ショー構成では『光』を自然と考える演出の配慮とセンスが感じにくかった。
陽の移ろいもまた自然。心を優しくする今の時代の大きなファクタ-


40年ほど前までは世界中に『型紙』と呼ばれたものが在って、それを拠りどころとして『布とハサミ』があれば縫いものを経験した人であれば誰でもが『服』を作れるという時代があったのだ。
この『型紙』がいつの時代からか消滅してしまった。
この『型紙』を商品として売っていたのが今のファッション雑誌のルーツ。
型紙作品のイメージとビジュアルをハンドブックとして始まったのがモード誌。
この『型紙』の作る事を教えていたのが洋裁学校。
いつの間にか洋裁学校は型紙を作り売らずにデザイナーを作る構造へと。
POTTOのスタンダードに対する自信の表れが、遊び心が『型紙』を付録につけたこと。
『型紙』=パターン。
もう、パターンは決して、『企業秘密』ではない。
先日まで行われた『コムデギャルソンのためのコムデギャルソン展ーパターン編』をみれば一目瞭然。
新たな時代はもうここまで。
パターンを企業秘密としているデザイナーほど、彼らたちが実際に使っているパターンはパックって来た物が多い。世間と言うものはこんな程度。

『布とハサミと型紙』
改めて、POTTOの痛快さを感じた。
文責;平川武治

Ne-net
高島一精
『フリ-ダ・カ-ロ、又はAn An、かつての自由市民ルックと呼ばれて、』
 
 このデザイナーも成長している。
なかなかの自信が見える。ビジネスも出来始めてきたのだろうか?
若しくはビジネスを考えた所でのショーと言う課題を与えられているのだろうか?
又は、新たデザイナーメイトが加わったためのプレッシャーもあるのだろうか?

 始まって、しばらくしてくるとこのカラフルでポジティフなコレクションが僕たちの若い時代の匂いを発していることに気が付き始めた。
『An An』 、そう、あの日本のファション雑誌の元祖、現在の東京モード・リアリティの祖形を提案した雑誌が1970年3月に創刊された。その時にこの雑誌が提案した当時の日本人向けのシルエットやコーディネートがまさに、『レヤード・ルック』と呼ばれ『トータル・ファション』を主張した『自由市民ルック』であった。このとしは『大阪万博』も開催された年。世間全体が新しい価値観で戦後の日本が動き始めたいわゆる、『改革の年』でもあった。

こんにち当たり前になってしまった日本的コーディネートファッションのスタイル化はここから誕生し、「ノーブラ」が流行し、下着のアウトウエアー化へと。そして、アメリカンヒッピーたちの「T-シャツ」が登場したのもこの時期。自然を意識し、「バックトーザネイチャー」のスローガンがモード化され、フォークロアファッションがそして、当然のようにジーンズ・パンツがニューアイテムとして当時の流行の先端を担った。
丁度、現在の社会性が「グローバリズム」をコンテンツとした同一世界の時代性を持ち始めるとそれに対抗するかのように、若さのシンボル、新しさのヱネルギィーを「ローカリズム」へ求めるように。
それと同じように、この時代の若者たちは画一化された「モノ」へのカウンターカルチユーとして新しさを
民族衣装や手作りもの、エキゾティックさへ求め始めた時代。

もう一方で、ファッションの産業コンテンツがこの年から現在のような価値観を売るビジネスへと
革新された、「繊維産業からファッション産業へ」の時代の幕開け。これが35年ほどの昔話。
しかし、現在のJFW が仕切るこの最近の東京コレクションを見ているといまだにこの確執を彼らたちの発想と運営手段に感じてしまうのは痛快である。
総てが解った振りをして国家予算を使いながら決して、お互いが理解されない、出来ないところでやっている術が見て取れるからだ。
ファッション・ブティックが誕生し、原宿が現在のようなファッションの街・界隈性を持ち始め、マックも登場したこの時代。ファッションの総ての変化はこの雑誌、「アン アン」とその後の「ノン ノン」と言うファッションメディアの誕生による所が多い。

思わず、このコレクションを見ていて現代のような日本のファッションの黎明期を彷彿させてくれて、楽しくも懐かしくも面白くも。これが僕たちの持ち得た、その当時持った「未来」はこの程度だったのかと挫折感も。

最初から全体の2/3ほどのコレクションはビジネスを考えた所でのコレクションと読める。
今的に言えば、「洋品」になってしまった定番アイテムのトレンド的こなしのバリエーッション。これは今のファッションビジネスの売り上げを稼ぐ一番のおいしい所。色、素材感、カット-ソ、プリント、こなし方、質感、手つくり感、優しさ、暖かさ、インザホーム感、エキゾチックさ、モダンさ感、ポジティフな総て。きっと、このデザイナーの中にある前回もそうであった、等身大的「ポジティフ・オタク」が今シーズンはリバイバル、「アンアン」をたたき台にしての展開。
これはその昔を知らない若者たちには新しさと驚きと楽しさへ。今も続くBIGIやMILKそれにPINK HOUSEの初期を彷彿するまでのコレクションを現在の衣料品化してしまったアイテム群に落とし込むまでの「腹八分メ」のデザインは旨い。この歳と経験でこれが出来る事はかなりMD発想も豊かな頭の良いデザイナー。

後半以降から登場してきたのがBRASIL,UTOPIAと書かれたブラジルカラーをベースにしT-シャツ群。
そして、日傘をモチーフにしたオブジェとそれに似合うロンググドレス。パッチワークあり、エスカルゴあり、段々あり。分量も決して、チープには見せない程度に程がいい。
何処かで見たイメージだと考えるとそこにはあの「フリ-ダ・カ-ロ」が。
‘80年代後半にはフェミニストたちのシンボルンとなり映画も出来たあのエキセントリックな生涯を持つ彼女、フリーダの登場。実は、昨年の巴里では彼女が再ブームとなりモードの表層へ出てきた。’90年代を通じて、あのフェミニズム運動の実際はどうしたのかと言う総括的時期に入りいろいろな所で展覧会やイベントが催されていた。
ステージのマネキンの足。天井から吊るされたボディー。
このデザイナーの中には本当に変わらぬ共通するものがあって毎シーズン、彼はそれを自分のショーのクリエイティビティへ委ねて楽しんでいるのだろうか?
自分の中の狂気を発見すればどうするか?
もう、この歳で見てしまっているのだろうか?

僕にとってはとても面白い、興味深いデザイナーである以前に彼が持っているその深みとしての知的さと静けさが頼もしくも虚ろにさえ感じる。
『こんな男の子がいたんだ!!』
コンセプトの建て方、時代の感じ方、読み方そしてそれらのこなし方としてのイメージングと最後には商品つくりに至るまで、かなりレベルの高さを持っていると読める、数少ない現代日本人若手デザイナー。
チームメイトたちも良いのだろう。
文責;平川武治

投稿者 : take.Hirakawa | 2006年09月08日 15:10

2006年09月07日

ルプリ by 平川武治 JFW 東京コレクション‘07 S/S評論速報

06/Sep.;
Le Pli Diary  TOKYO Collections‘07 S/S by Take.Hirakawa 

HISUI
伊藤弘子
『身体と布地との感情関係をどの様に構築してあげるか?』

 もう結構、幾シーズンも見てきているこのデザイナーのコレクション。
その度に、器用なのか、不器用なデザイナーなのかがいつも不明。判断が付けられない。
よくよく見てしまうと、いつも終わって感じてしまうことは『何のために?』デザインをしているのだろうか?服を作っているのだろうか?とも考えてしまう。多分このデザイナーも本当に服が好きなのか、何か、自分自身のための創作活動の一端としてそれがたまたま、服をデザインすることなのか? この辺りで迷ってしまう。

 今シーズンは又、結構難しいコンセプトでデザインをしてきた。
多分このデザイナー的に時代を感じ、想いそして、周りをも気にした結果、ジオメトリーとしてのサークル・パターンを、そして、身体を拘束するという発想からのプロテクションとしての捻りのトップスやボトムになったのであろう。しかし、美しくない。身体が美しく見えない。又、今の時代的な感性で言えば、決して、エレガンスには仕立て上がっていない。着る女性への想いが感じられない。作る側の発想のみが見えてしまう。
その原因は、思い込みと理屈からの発想が大きいのであろう。いわゆる、手が、技術が付いて来ない。
いろいろな情報とお勉強でこのデザイナーはやりたい事がいっぱいある人なのだろう。そういう好奇心や挑戦心が旺盛な人なのであろう。だが、昨日のmintdesignsの欄で書いた、デザインをする上での最も基本とするところの『スタンダード』が甘い?身体を美しく見せることとは? 肌をただ、多く見せる事がセクシーさでもないだろう。身体と布地との感情関係をどの様に構築してあげるか?そこで初めて着る人の身体つきと布との間にエモーションが生まれるはず。もっと、もっと手前の所で弄くっているだけの結果、着ている女性の身体と服化されている布地がいわゆる、そぐわない。心地良さやそこから感じさせる品の良さも感じられない。そのために、身体が美しく見えない。もう一度、根本的なる本質の部分からデザインを手なずける事をしなければこのデザイナーの持っている癖は直らないのかもしれない。文責;平川武治

投稿者 : take.Hirakawa | 2006年09月07日 03:10 | comment and transrate this entry (0)

2006年09月06日

ルプリ by 平川武治 JFW 東京コレクション‘07 S/S評論速報

Le Pli Diary ‘07 S/S by Take.Hirakawa 
05/Sep.;
mintdesigns
勝井北斗+八木奈央
『That’s fany show but,so original & so mintdesigns.quarity.』

確実に成長している、上質なコレクション。
このブランドらしさにある種の自信が附き始めて来たコレクション。
彼らが持ち得たスタンダードと学び修練してきたファッションの基礎はそれが当たり前であればあるほどに今の日本の表層でむやみにメディアに騒がれている若手デザイナーたちには欠如している部分である事が解かる。多くの彼らたちの作品からはベースになる身体を想い考えたコンストラクションが借り物であること、その上にディテールを貼り付けているだけのフォルムやシルエットでしかないことを感じる。この装飾性の表層部分で多くの見る側をフェイクし、それをトレンドだと勘違いした所での評価が現実であることも多い。

 ポップでオプチカルなプリントで遊ぶ。
今回もこのブランドは自分たちらしさの大きな一つであるプリントを大胆に楽しく爽やかに心地良く遊んだ。いくつかのパターンのサロペット、軽く覆うかの分量での軽やかなワンピースもレースをボーダーカットされたテープを作っての優しさの表現はこのブランドのカジュアルさを少し上品に引き立てる。これらはこのブランドが得意とするフォルム群の一つでもあろう。前半のアルルカンを感じさすカットソーがメインのコレクションに代わって、後半のシルク地のプリントものにはエレガンスな趣きさえも感じさすまでのプリントとの遊び。着る女性に上品さを与える。美しいフォルムとシルエットになった胸元の切り替えのカットワークが幾何学的なワンピースが美しく仕立てられ気になった。こんな所に彼らたちのスタンダードのレベルを感じる。

 一つ、僕的な注文をつけると、もう一歩踏み込んで着る人たちの身体と身体つきに今回の彼らたちのポップなオプチカルプリントを委ねてみればもっとこのブランドが新しく見えたはず。
いわゆる、布の裁きだけでこれらのプリントを委ねたデザインでのプリントの揺らぎは表層のカバーリング。しかし、思い切って身体に委ねてしまったときのプリントの揺らぎは着る人が生み出すモアレになりもっと、時代観を感じるまでのプロテクションになろう。平面的な布の上で見せるプリントの遊びと立体の上での遊びではその遊び方のコンセプトが違ってくるからである。文責;平川武治

mercibeaucoup
宇津木えり
『自由? OR 不自由? 』

 今回もこのデザイナーらしさ120%の楽しさを痛快に見せてくれたコレクション。

彼女の呼吸は東京呼吸?
ノイジーな環境に慣れてしまったノイジーな人たちを癒すにはpink-noise。
その中で必死に捜し求めるエモーション。
その行為とは、例えばそこが東京であれば自分たちが東京ノイズを発信。
飛び跳ねる、あがき回るそして、思わず、ノイズのためにひっくり返るマヌカン。
立ち上がる様のなんと人間的な行為。
その時、服は女服になる。
同化したノイズは刷り込まれたプリント模様。
バランスで組み立てられたボリュムはプロテクション。
分量が転がる、走るそして、転ぶ、これが遊び。
環境とは身体を生かした遊園地。
そこでは、本能は無限な自由。
或いは、不自由。
エモーションだけが知っている本能の正体。

 移籍後はプリントのバリエーションが新たな世界を生んでいる。
既に、見慣れたアイテム群の中にこのデザイナーのとんでもない旨さを見てしまう。
それらは分量のデザインがマスマティックな仕掛け服。
そして、コーディネートの旨さは彼女の世界を広げている。
本当に彼女らしさのコレクション。

らしさはらしさ。
時代の風向きは少しずつ、性そのものをプロテクション。

コレクション会場で彼女のようなヘヤースタイルをしている観客の幾人かを見かける。
文責;平川武治

ATO
松本与
『SWEET ROCK’N ROLE』

 幾つかのタイプがミックスされたコレクション。
その分だけこのブランドのアイデンティティは薄れる。
Romantic野郎はプレスリーバラードが男の子たちを恥じらいへ誘う。
シルクジャガードでフリル、ボー、ベストはクラッシクにピーコック。
スーツな洒落男を装うマッチョ野郎はロックンローラー。
シャープなカットのスリム・ジャケットはこのブランドの定番。
シーズンが感じられないミス・ダンディズムはミュージュック・ダンディズム。
ヤンキー野郎はシルバージュエリーと墨が似合う。
見せない墨を感じさすまでのおぼろげな黒。
紡毛を使った鎧は彼らたちのネオ・コスチューム。
レザーをサッシュに使った同類のパンツとGジャケット。
彼らたちはプレスリーを知らない世代?
文責;平川武治

投稿者 : take.Hirakawa | 2006年09月06日 05:41 | comment and transrate this entry (0)

2006年09月05日

ルプリ by 平川武治 JFW 東京コレクション‘07 S/S評論速報

Le Pli Diary ‘07 S/S by Take.Hirakawa 
04/Sep.;
THEATERE PRODUCTS
武内 昭+中西妙佳

「‘50年代、『巴里のアメリカ人』現代版?」
 このメゾンを見終わって感じる思いは「なぜ、このブランドへ人気が集まるのだろうか?」と言う自問である。観客は東コレをそれぞれの立場でバックアップしている、いわゆるそれなりのジャーナリスト、編集者たちが集まるメゾンのコレクションである。
が、一方では、スタイリストと称する輩たちのそれなりの連中の顔が見えない。多分、ある意味でこのブランドは「東京的」受け方をしているブランドなのであろう。

このショーを見て感じたことは、「やりたいことのフレーム」と「やらねばならないためのフレーム」の間で生じるノイズを感じてしまった。多分、このバランスの取り方そのものがショーとなっているのがこのブランドの最近の特徴かもしれない。
先ず、「やりたい事のフレーム」は「BODY」を如何様に意識した所での“エレガンス”を出すかのテーマ性だろう。その表れが、使われていた素材と色目に読めた。例えば、素材では一片のレースをどの様に発展させ衣服化するか。それらをボディータイツの上にレーアードすることによって身体の動きが生む布地の動きを女らしさの新しいエレガンスとみなす、見て欲しいというまでの読みをしてしまう。したがって、他の素材も薄物である、シフォン、ジョーゼットそれらに加えて昨シーズンからのランジュヱリィー素材が加わっている。
そして、「やらねばならないためのフレーム」は当然であるがマーケットを意識したものあるいは、トレンドと言われるものを触らなければというまでの素材とこなしとそれらによって作られたボディーコンシャスな初歩的コーディネート提案とそのためのアイテム群であろう。そして、これらのテイストは在る意味、大胆な発想としての“SEXY” 。しかし、これらのセクシーアイテムをアウターとして着るのか、ナイティ&インナーとして着るのか?この辺りの大胆さが、つまりズレ加減が”カワイイ“となり、このブランドの魅力となって冒頭の東京的観客を呼ぶのであるうかと考えてしまった。

もう一つこのブランドは自分たちの顧客層へのマーケットセグメントが旨く出来ているブランドでも在る。即ち、マーケティングが旨い。日本の女性既製服市場はいわゆる、OLマーケットがBIGESTマーケットである。そのため、アパレル発の各ブランドはこのマーケットを目標に売り上げを取り合っている。しかし、このブランドはなかなか旨い所を突いているのが、これらビッゲストマーケットの中心を直に狙わずに、そのちょっと上としての、“ミスティー&ミセス”をも含む所と、そのちょっと下としての“ヤング”の今で言われる“エロ・カワ”“モテ系”までを押さえたコレクションを作っていることである。OLマーケットの中心はアパレルさんに任して僕たちはそのマーケットでの特化したい人たちを狙うというまでのマーケティング。きっと、このクラスのブランドにしたら売り上げもいいだろう。

見終わって、このブランドが意味する「装い」とは何なのだろうか? メディアに気に入られる事が「装い」ではないはず。このブランドネームが語るように単に「衣装的」なるものに委ねてしまった服つくりなのだろうか? それに、彼らが提案する「新しさ」とは何なのか?それが今の時代における「問題意識」にも通じるはずなのだが見えないし読めない、探しても見つからないそれらの「コード」。それに、何の狂気すら感じない創造性の深み。これらも多分、共通する「東京的なるもの」であろうか?したがって、東京のジャーナリストたちは安心して見に来るのだろうか?

不安げに1枚の僕には印象に残ったトップスが出ていた。着物のハオリ感覚のジャッケットタイプのもの。なぜ、これをもっと軸にしなかったのだろう? いい提案アイテムであったのに。
‘90年代半ばにパリコレでも活躍していたモデルを幾人か使ってのちょっと、街角、クラッシク、エレガンスと言うムードつくりは音と共に楽しめた。文責;平川武治

 04/Sep.
SOMARTA
廣川玉枝

「自分で時代が読めていない。」
 美しい映像。そして、音。今時多くみられる、『心とからだをプロテクト』的イメージ。
鳥、ドアー、鍵、と枯れ木、エゴンシーレーに2点ある僕の好きな枯れ木に似たものと,いわゆる私?

 ある種、贅沢な経験をしてきたデザイナーなのであろう。
そのために、バランス感がいい。そして、素材のチョイスが日本的強さを知って、新しさとして使っていること。それに、こなし方としての手法がクラフトである。
デビューコレクションだからなのだろう、見せる要素をメインとしたショー。それも、イメージと素材感に頼ったもの。デザイナー自らのリアリティはバランス感覚と素材選びの確かさだけ。
しかし、これは日本人デザイナーには本当に珍しいこと。
バランス感で贅沢感やエレガンス感、シックさが構築できるまでになれる可能性を持ったデザイナー。

しかし、他方、一生でのアシスタントが長すぎたのだろう、(確か、7年?)ある種、プロのアシスタントから抜けられない旨さを感じてしまう。フォルムやシルエットにオリジナルが感じられない。フェミニンでエレガンスだけど誰かがやったことのあるディテールのこなし。幾人かのオリジナルが読めて結局はザッピング。それは、靴の幾パターンの使い方でも読める。
トレンド的アイディアとしての『2nd.SKIN』は今シーズンでは当たり前。そこで、プリントモノ(?)のボディータイツと来ればもうすっかりトレンドブックもの。素材のハイテクさとその技術で出来上がったものとしての面白さは感じるが服としての新しさと新鮮さは素材感の方が上。黒のピンタックキュプラニットと称される素材のものが特に気を引いた。美しい素材であるし、素材そのものに品を感じた。
これからの課題は自分で時代を読むこと。感じること。そして、これだけの素材が使えるのだから堂々とした自分自身のアデンティティある世界を、どんな人にどの様に『装ってあげたいか』を自分自らのリアリティで発表して欲しい。それが、プロのアシスタントからの脱却ではないだろうか? しかし、今後が楽しみ。文責;平川武治

投稿者 : take.Hirakawa | 2006年09月05日 03:36 | comment and transrate this entry (0) | track back