平成二十三年の終わりに念うこと、年賀に代えて。
僕のこゝろは、来年は喪に服すこゝろの有り様です。
あの日の天災によって亡くなられたみなさまへの
変わらぬ御成仏を願うこゝろとともに,今年の終わりを迎えたいです。
『 どうか,安らかに御成仏なさって下さいませ。
残された者の責任はこれからの起り得る現実に対して
どのように”向かい合って”
そして,それぞれの立ち居場所から”分かち合う”かです。
僕たちが背負い込んだ”負/リスク”をどのように
僕たち日本人として,
また出来れば,地球上の人たちとも”分かち合って”行くことが
出来るかに課せられています。
決して,解った顔をしてしまって,
『3.11』を,
『FUKUSHIMA』を
“風化”させないで下さい。
“自然”は正直です。
人間は嘘をつきます。
正直な”自然”が
これからの僕たちのこゝろを,國を、子どもたちを
犯す可能性を見誤らないで下さい。
決して,解った振りだけをしないで下さい。
僕たちは謙虚に,
嘘をつけない”自然”と共棲してゆく勇気を持つ事、そのために学び,
それぞれ,自心のこゝろの有り様として行為して下さい。
お願いします。
そして,”世間知らず”ならず,
『世界知らず』のYELLOWにならない様に。
あらたな年への念い。』
今年も少しでも多くの人へ
何かが差し伸べられればしあわせだった1年です。
僕の今年も,
沢山の人たちからこゝろを頂くことが出来た1年でした。
どうも,ありがとうございました。
穏やかなる,
大いなる新たな年をお迎えください。
相安相忘。
文責/平川武治。平成弐拾参年十二月大晦日。
投稿者 : editor | 2011年12月29日 23:32 | comment and transrate this entry (0)
なぜ,僕が”ユダヤ人”にこだわる発言をするか?について。
なぜ,僕が”ユダヤ人”にこだわる発言をするか?
「“世間知らず”という言葉が有るが,”世界知らず”にはならないで欲しい。」
はじめに:
僕の25年間の巴里生活でお世話になった人,恋に落ちた人,友人になった人,知り合った人たちの80%以上は
ユダヤ人かユダヤ人系の外国人たちであり,彼らたちから大変にお世話になり,とても素晴らしい、
いい”関係性”を築かせて頂いた。
そして,これらがすべてで現在の僕が在ると感謝している。
そんな経験からなぜ,僕が”ユダヤ人”についての発言を多くするかを整理してみようと思う。
幾つかの理由:
1)ファッションビジネスにおける"世界”という立ち居場所を求める為には,世界レベルを知らなければならない。
世界のファッション産業界とはどのような人たちと彼らたちが作った”構造”であるか,という
最も基本的な認識の一つとしてである。
2)僕の体験で知り合った,このファッションの世界での多くのユダヤ人たちは人間的にも能力的にも
大変に”優れ,努力もする魅力のある”民族の人たちである。
その最もたるところが,彼らたちの”宗教観”と”家族意識”。
そこから生まれた”家庭教育”の行き届いている事である。今の日本人は彼らたちから“学ぶ”ところが多く有る。
そして,彼らたちユダヤ人たちが最も大切に,大事にしているのは“関係性”である。
であるから,彼らたちが認めるレベルの,認められる能力、魅力,知性があれば彼らたちは
自分たちの”関係性”へ入れてくれる。そのためにも彼らたちを認識しておく必要がある。
3)そんなユダヤ人たちが構築した世界のファッション業界でビジネスを競い合
又、彼らたちと”ビジネスパートナー ”としての”関係性”を持ってゆくには
彼らたちの”ルール”を認識しておく必然性がある。
これは或る意味でこの世界でビジネスを行なう者たちが学び持たなければならない,
”責任とリスク”の問題である。所謂,“W-スタンダード”を持つ事を意味する。
4)“世間知らず”という言葉が有るが,”世界知らず”にはならないで欲しい。
あなたたち世代が今後”世界”を意識した時にはこの“世界知らず”はとても恥ずかしい,悔しい状況と
”関係性”を生む事になる。或る意味では変わらない”外国人コンプレックス”の要因である。
これは何もこのファッションの世界だけではない,アート界、メディア界も全くの彼らたちの世界である。
例えば,今回の”原発問題”でもそうである。“原発”という世界を国民の大半以上が余りにも”無知”で
知らなすぎたがゆえの事故とその後の現実が”操作”されている事も同様な原因である。
5)これからのあなたたち世代の人たちが”世界”を目指し,渡り歩く時に,
その“世界”の構造とどのような人たちが動かしているかを知っておく権利と義務が有るはずだ。
”仲間”をよく理解する事から適正な”コミュニケーション”が可能になり“堂々とした気骨ある日本人”として
胸を張って”自由”に彼らたちと渡り合える。ここに正常なビジネス条件が成立する。
6)世界のファッション界は“キャピタリズム”のフレーム内で存在している限り
彼ら、ユダヤ人たちが創成した”価値観”と”ビジネスマインド”の学ぶべきところは”学ばなければ”ならない。
これからの世界は確実に”国家”間のパワーコンペティションではなく“民族”間における経済戦争が
”ポリテカル化”する状況でしかない時代性である。
7)僕の“ユダヤ人”発言のこゝろの根幹はもう一度言うが,
“世間知らず”という言葉が有るが,”世界知らず”にはならないで下さい。
そして,将来あるみなさんが”気骨ある日本人”として”自信”を持って,僕たちの”文化を武器”として
堂々と世界で競いあって欲しいからである。
僕たち,日本人は“モノ造り”に於いてはとても”繊細で優秀”な穏やかな民族である事に
大いなる,”誇り”を持ってください。
ここに僕が提言する“YELLO WMIND"の由縁が有ります。
僕たちの國を僕たち自身で救いましょう。
ありがとう。
文責/平川武治:
平成二三年師走吉日。
追記;先日、nozomi ishiguro様からこのようなサイトの紹介が有りました。
是非、ご興味有る方は見てください。
これも“世界”の現実なのです。
だから僕が発言している事に好奇心と興味を持って、理解してくだされば幸いです。
「“世間知らず”という言葉が有るが,”世界知らず”にはならない為に,」
http://www.youtube.com/profile?user=dandomina&src_vid=zXbxbJbSj_8&feature=iv&annotation_id=annotation_373960#p/u/5/P9XvgJvbj2U
石黒望様ありがとうございました。/ひらかわ:
投稿者 : editor | 2011年12月14日 00:17 | comment and transrate this entry (0)
”今なぜ,原宿を?”考えて,その向こうに見なければならない”世界”の為に,』
テキスト/『原宿,今なぜ,原宿を?』
*The other Standardを考えてみる。:
ここ1年来、僕が提言している『THE YELLOW』を意識した時,
1)“新たな物差し”が必要である。
欧米先進国が作った物差しで測るのではなく,世界に通用する『アジアの物差し』即ち,
それぞれ自国の物差しが必要である。
この欧米先進国が作った”物差し”と言ってもその根幹はユダヤ民族が生み出した文化と
それらの価値構造が世界の経済までをもコントロールする規模とパワーと関係性がこの2世紀程で
彼らたち欧米先進国の”物差し”になっているのが世界の現実である。
2)次に,“新たな分かち合う文化共同体”構造が必要になって来る。
持ち得た、『アジアの物差し』即ち『YELLOW CULTURE』によるアジア諸国との共存,共栄と分ち合を
文化と価値観とした“新たな文化共同体”構想を考える必要が在る。
この『YELLOW CULTURE』が従来の欧米諸国が生み出した”物差し”と共存,共栄そして,
ここでも分かち合ってゆく事がこの21世紀の新たな地球規模の価値観で有るという迄の自由な発想。
3)この次には,“新たな経済圏”を構築化する必要がある。
この“新たな物差し”『YELLOW CULTURE』に依って,それぞれの国の実経済が,
生活者たちが豊潤になるまでの経済共同体構想に依って新しいアジアを考える。
その中心となるのが”東アジア圏”である。中国、台湾,韓国,日本。
もう一つは“南アジア圏”,インド、インドネシア,タイとその他の諸国である。
例えば,この東アジア圏だけでも人口は世界1の規模であり、この世界1の人口を有する東アジア文化圏を意識し,
文化交流と文化協力によってそれぞれが“分かち合う経済圏”を構築出来る可能性と必然性は大いに在る。
例えば,現在のEUはECの時代からヨーロッパ文化圏を作る事をユダヤ人たちが中心になって非常に強く意識し,
行動しいろいろな手を打って来た前歴が在り、その結果が今のEU文化経済圏である。
即ち、彼等たちにとっては“文化は武器”というまでのコンセプトが強くあるのです。
4)この“新たな物差し”『YELLOW CULTURE』には既に,分かち合う為の”コンテンツ”が創造されている。
例えば,現在当り前の様に使っている”コラボレーション”や”ダブルネーム”というプロダクト手法も
“裏ハラ”発信から世界のファッションレベルへ進化した一つである。
既に’90年代中期から創成され世に出始めたアニメ,マンガ、ゲーム、音楽,映画,演劇と建築それに,
ファッションに至まで,“オタクカルチャー”や“サブカル”による“コンテンツ”と“デザイン”が
今では世界にバラ蒔かれてそれぞれの断片が欧米の消費社会の新たな文化や価値に変貌し、
”消費文化カルチャー”となり世界経済の動向に確実に寄与し始めている。
多種多様な文化ジャンルのリ-ミックス化とコラボによって、
『アジアの物差し』の為にコンテンツを分かち合う構造を構築する事も考えよう。
例えば,共作映画や演劇活動へのコスチューム参加,映画祭とデザイナーの新たな出会いと関係性、
アニメ、ゲームや音楽とファッションの関係性を異文化へも発展させる等々,
ここで“out of category"という発想が必然性を持つ迄の自由さである。
そして,僕の近い未来への提案は,
その後の日本を代表するもう一つの”イエローカルチャー”である“電脳アキバ”と
’90年代後半に彼らたちによってディレクションされた”カッコいい”をウリとする”裏ハラ”を
コラボやW―ネーミング化する事。
これよって世界のニュージェネレーションたちへ
“ニュアンス+メカ”をコンテンツに『YELLOW CULTURE』を売りまくること。
これがこれからの世界の消費社会への強力なる”武器/イエローパワー”だと本心,考えています。
5)具体的には’90年代初めに雑誌cuteiが創刊され“カワイイ”という言葉が形容詞として一人歩きを始める。
以後の日本社会ではポジティフな事を示す多様で広範囲に利用出来る形容詞になってしまった。
それは現代では“美しい”“すばらしい”“愛らしい”“似合っている”“イケテル”などを意味するまでの言葉になった。
ここには日本人の特性感覚である『柔らかい/ソフト』『小さい/まとまっている』
それと『コミカル/おもしろい』と言った特性を新たな感覚領域としてポジティフに生み出した。
このカワイイは当時の ”MILK”が生みの親であり,それを男発想で後に、世に出したのが”A BATHING APE”である。
いずれも,”原宿”という街のスーベニィールブランドとして発展している。
(MILKにおいてはワンポイントのついたポロシャツがそれである。”A BATHING APE”はブランドそのものが
スーベニールものである。)
そして,この“カワイイ”はもはや,アジア語になっている。
6)そして,現在のファッションの世界の時代性へもう少しフォーカスを絞り込むと,
“工芸的”とそのこゝろの有り様である”細やかさ”が今の時代性を表現するまでの新しさである。
“工芸的”とは、決して従来からのジャポニズムに由来する伝統工芸を意味するものではない。
むしろ、モダニズムをそして、サイバーテクノロジィを踏襲したところの現代社会の都市生活者たちの
感覚に基づいて新しい素材と従来からの素材、手作業と新しい技術のミックスコーディネートによる
自由な発想のバランスが生む工芸である。
寧ろ,突飛でもない発想も含めたところを日本人本来が持っている器用さで”温もり感”や”馴染み感”を
それに“安心感”などを感じさせる仕上げによってデザインが為されているものがカッコ良さを持ち始めている。
ここで近い未来を考慮し始めると,”ミシンで作れない服”の発想が在る。
この1年ほど僕が発言して来ている,”新たなテクノロジー”のバランスによる
”新しいファッション”ヘの志向と決断である。
“細やかさ”では,モノを必要以上に極め細やかに仕上げる感覚,こゝろ配りの細やかさ、
痒いところに手が届く的配慮が行き届いた日本人本来の気配りのあるデザインこゝろ、
それが現代の“上質なもの感”になって来ている。そして,これが行き過ぎると”キッチュ”である。
言うまでもなく”エレガント不在文化”即ち,階級無き文化における戦後日本の消費社会のすべての存在が,
東京そのものが”キッチュ”である。
従って,“tokyo"を売りにしているスーベニールブランドである限り,東京が存在する限り
そのコンテンツは売れると言う思いつきが”A BATHING APE”には在る。
7)今,世界には僕たちの『アジアの物差し』即ち『YELLOW CULTURE』への時代の追い風が吹いている。
この時代の追い風とは、一つは市場における消費構造の新たなタームが廻って来たこと。
僕が棲んでいるパリもそして、他のEU都市も同様にこれらの街に住むイミグレーターたち(移住民)の
新世代層/New generationsが高い教育と職業を持ち始め,彼らたち中心の新たな消費者層が誕生し始め、
確実に『大衆消費社会構造』の主役が彼らたちへ変わり始めたこと。
彼ら世代の日常生活が持ち得た共通のコンテンツは殆どが日本発のサブ-カルであり
消費カルチャーから影響されたのものである。
これは、取りも直さず、かつての、’90年代中期以降の日本の状況である。
巴里の黒人の子どもたちが”キティちゃんバッグ”を持つ、そのお母さんは”LV”印のバッグ。
8)もう一つは、作り手側の時代感が変化し始めたこと。
『造形』的なる面白さが希薄になり,『工芸』的なるものの豊かさに時代の欲求が変化し始めたこと。
昨今の社会環境とそこでの生活状況のあらゆる事に疲れと倦怠と不安性を感じ始めた女性たちと
都市生活者たちの”安全、安心,健康と快適さ”ヘの生活観の流れの変化は、
衣料品からカジュアルファッションを着る事が平常となった現代社会人たちの当然のベクトルであり、
その結果が,「新-当り前主義」を構築し始めた。
それは街で見掛ける多くのお母さんとプッシュチェアーにのかった子どもたちが作り出す風景である。
そこで求められるものは形骸的なデザインものよりも肩の力を抜いた快適さと快感と穏やかさがベースとなる
工芸的なるものへの大衆心理が働き始めたと読める。
この状況はコレクションデザイナーたちのメンズもレディースも同じ状況をもたらし始めている。
今ウケているブランドとはこの“工芸性”が強いものである。
先ず,オリジナル素材又は,素材の選び方が重要。次に,その素材の料理の仕方とまとめ方
そこに,時代感を即ち,トレンド感をどのように味付けとして巧くまとめ色ずけするか?
その結果が,穏やかなもの,安心させてくれ,落ち着かせてくれる安全で生活の健全さと
こゝろの癒しを感じさせる迄の装飾性豊かな(若しくは,無機質な)デザインとアッセンブリッジの巧さ。
形骸的なデザインの為のパターンメイキングではなく,こゝろと身体の快適さと安らぎさを思う迄の
着やすさとカッコ良さを感じさせる為のパターンメイキングが為されていること。
/コレクションデザイナーたちではUnder Cover, mina.p., sacai, nozomi ishiguro,KOLOR,TOGA, matou,等。
世界レベルでの最高峰はA.アライアである。彼の作品には高度な身体に基ずいた「造形性」と「工芸」との
バランスが彼の世界観で構築的に極められているからである。
9)勤勉性と器用性と見栄性が生む”見た目感/ニュアンス”が考えられる『アジアの物差し』の根幹である。
『造形』的なる面白さが希薄になり『工芸』的なるものの豊かさに時代の欲求が変化し始めた状況というのは
案外『日本的なる状況』と言える。
又,巴里のモードの出発点もこの『工芸性』にエレガンスを見たところから始っている事も事実である。
従来からの『Made in Japan』には決して,モノの本質的な創造は殆ど無かった。
そのオリジナリティは無いか貧しいにしても,その主題の取り方、素材の使い方とまとめ方の上手さと巧さで
即ち,多種多様なものを工芸的に使う事でオリジナルものより以上に装飾的に使いこなしてその結果、
それそのモノが持っている”ニュアンス”を”オリジナル”としてしまうことが
即ち、『Made in Japan』であったはずだ。
これは『日本文化の本質』かもしれないし、『YELLOW CULTURE』そのモノであり、
アジアの特質と言えるであろう。
僕たちが使っている漢字に対しての仮名の関係も然り,磁器と陶器の関係,漢画と大和絵
そして,琳派の関係等など。
最近でのIT機器類にしても,ケイタイの本体の特許部分はサムソンが押さえていて
それらを使ってのアッセンブリッジが多種多様化されたものが上手、得意分野という事も考えれば、
これが,元々の『日本人の作る』という行為に対するオリジナリティ性と理解出来る。
又、“YELLOW MAIND"である。
10)そろそろ結論へ急ぎましょう。
考えるに,日本国内におけるファッション産業はもう既に頭打ちですね。
これからはやはり,“外”へ出掛けるしか無い。ここにポリテカルな意識が必要になるでしょう。
グローバリズムとは結局は“二極化”即ち,富むものと貧しいもの,貢がすものと貢ぐもの、良いと悪し,
そして,”0-1”の世界観。”右と左”のバランサーを上手く利用し乍らバランスを取ってゆく。
この二極の間に自分たちのために富を稼ぎ出す新たな”中間層”
”イミグレーター/移住民”たちを入れ込む新たな方式。ここでも彼らたちの”三位一体”構造ですね。
戦後の植民地とは欧米先進国が政治道徳上,受け入れ自国内に内蔵されてしまった
”イミグレーター”たちの世界。
そして,アフリカへ行って解った事はその殆どの國がこの2,3年で”独立50年”を迎えている事である。
イミグレーターを受け容れる事で遠隔操作を可能にし,
美味しいものの独占利権を依然手中に握りしめ続けています。
このしがらみを利用し,ハイパー社会のメディアによって煽動された群衆たちの連動が
今の北アフリカ系諸国の暴動でしょう。
そして50年後,自分たちが受け入れたイミグレーターたちを
今世紀の新たな中間大衆としての消費者層に格上げし始めること。
即ち,戦後の日本と同じく,”消費社会の蜜”を吸わせ始め、“ニンジン”をぶら下げる。
この構造で産まれ得る新たな消費のモチベーションがどれだけ白人社会のへそれなりの利権を潤わすか?
今世紀にそのターゲットを”白から黄色,黒”の世界へ変えるだけと言う戦略。
彼らたち白人は白人優位思想を少なからず持っている。
先述したECの時代からヨーロッパ文化圏を作る事を中心に彼らユダヤ人たちが
17世紀後半から出来上がったドイツ哲学を根幹とした”美意識と価値感”を
文化、経済価値へまで拡げたのもこの優越感からでしょう。
従って,日本以外の先進国にはイミグレーターが存在しているので,この作戦は実行可能。
しかし,先進国であるはずの日本は敗戦国になり戦前のイミグレーターと言われる立場の人たちは
掌を返し日本社会の中へ諸コンプレックスを携え,お金を求めて埋没して行きました。
それが現在の日本国の現実と現状。
従って,現在の日本には外国先進国が政治道徳上,受け入れて来た社会層としての
イミグレーターは存在しない。
そのため,この白人たちが考え出したグローバリズムのコンセプト”二極化”だけが形骸的に進行し,
そこへ埋めるべき“イミグレーター”たちが国内には不在という現実。
故に,このままで行けば国内での今後の経済発展は変わらぬ日本人たちの為の日本市場という
レベルからは抜けられない。寧ろ,ファウストファッションから見れば変わらぬいいお得意様レベルでしかない。
例の,H&MやFOREVER21の日本マーケット上陸と出店計画を又、
反対にUNIQLOが海外で湯水の様な広告宣伝費を使わされてどのようなターゲットマネージメントをしているか、
それが功を奏しているか?を読めば理解が出来る。
国内のアパレルが以前の様なビジネス状況を、変わらぬ日本人だけのマーケットで復活をもたらすことは
非常に難しい。当面は現状復帰への復興がいいレベル。
故に,これからの日本人と企業は自国のリスクを伴って,我々が,”アジア”へ出稼ぎ(進出)に行くか,
又は“新たな文化共同体”構想を持ち、『アジアの物差し』即ち『YELLOW CULTURE』を共有し,
共生かつ、分かち合ってゆくかの選択肢しかあり得ないでだろう。
ここに“分かち合う文化”の為の新たな”リスク”が問題,重要視されて来る。
これが現状の日本の有り様でしょう。
そして,またもやの問題は続く“円高”現象。
これによって,大手企業は堂々と出稼ぎ行為に円高資金を使って拡張出来るが,
小規模なところは大変になる。ここでポリテカルなバックアップが必要になるのだが今の政府では役不足。
従って,ここでも,若い人たちは”アジアのニッチ”を日本発のコンテンツを持って狙うしかありません。
その時に,何を持って”芸”が出来るか?その”芸”で金が稼げるかですね。
『アジアの物差し』即ち『YELLOW CULTURE』が真のこれからのアジアの”武器”になるか?
“原宿”が『アジアの物差し』即ち『YELLOW CULTURE』のコンテンツとなりうるか?
これを検証したくなり,今回の会が『原宿,今なぜ,原宿を?』テーマとしました。
これを幾回かやり,巴里のモードのフレームでない新たなフレームを『アジアの物差し』
即ち『YELLOW CULTURE』で構築することが出来れば『YELLOW POWER』が21世紀を救うでしょう。
若しくは,変わらぬただの土産物屋で満足するのか?
この辺りまで来ると,後は,それぞれ日本人としての”真こゝろ”の質と格の問題,
自心のこゝろの有り様だけでしょう。
しかし,人間のこゝろの有り様は個人のカルマでしか在りません。
**付記/再度,『造形と工芸』について,
身体構造が変化しない限り,今後のファッションにおける”造形”はもう,既に行き着くところ迄
行ったのが20世紀迄であった。これからは再び、“人間性主在”を考えた自由で豊かなる”工芸”的な感覚と
新旧多様な技術のバランス化が新たなファッションの世界を切り開く時代性である。
ここには着る人間の"こゝろの有り様"を思う迄の“CARE & CURE"が“工芸”的に創作される事を念う。
工芸:実用性と美的価値とを兼ね備えた工作物を作ること。
造形:形のあるものをつくりだすこと。ある個人の観念などから、ある形をつくりだすこと。
ご意見を交わし,分かち合いましょう。
今年も拝読,ありがとう。
『すばらしい自心のこゝろの様』が現われる新たな年が迎えられます様に。
そして,『YELLOW MIRACLE』を喚起しましょう。 合掌。
相安相忘:
文責/平川武治:
平成二十三年十二月三日:原宿VACANT-LEPLI会の為のテキスト。
投稿者 : editor | 2011年12月13日 23:38 | comment and transrate this entry (0)
午前4時のコーランから始まる1日。バマコの朝,容赦しない灼熱の1日が始る、
コレクションが終わって少し落ち着いたところで今回の最後の旅,
西アフリカ、マリ共和国のバマコで今年も開かれた黒人写真家の為の写真ビエンナーレ/
Rencontres de Bamako,Biennale Africaine de la photograrhie/ヘ出掛け
その後,この地の秘境部落へ足を運ぶ予定だった旅。
このほぼ,1ヶ月の旅は大変な旅でした。
「 いろいろな事があり、いろいろな事を気ずかされた旅。
非日常的なる行為の向こう側にあるのは気づかないでいることの
怠慢な惰性に押し流されている自分。
年齢という大きな時間のうねりに気が付かなかった自分。
そんな自分を見せつけられた様な今回の旅でした。
幾つかの,旅にはそんなに珍しくないアクシデントが
この旅という期間中に重なって起りそれに対処する自分と
その自分が持ち得た時間と現実、存在の小ささとが見事に絡み合って
異境の,全く”湿り”と言う感触がない世界での
僕の五感は或る意味で,限界を知ってしまい
頼ったのはただ,自心のこゝろの有り様だけの旅でした。
結局,予定した旅は出来ず,
今回もドゴン部落へは未踏の旅でした。
現地人とどれだけ同化出来るか又は、隔たりがあるのか?
彼らたちとの”距離”感を体験し
自らの立ち居場所を決断する旅となったようでした。
沢山のことが憶い起こされ,考え,渦巻き、
太陽の激しさ故の怠慢になる身体とは反対に
僕の脳みそはまだ,ガタガタとエンストを起こし乍らも
働いてくれることが解る旅でもありました。
判ったことは体力の衰え。
これが認識された旅でした。
起った幾つかのアクシデントも,
体力が無ければ,
それなりの時間と金銭的余裕があっての計画であれば,
何も起らない旅になっていたでしょう。
預けられた神からの残りの時間は
精神面だけではなく,
肉体と共に余裕ある生活を目指すことが
自分の生の責任でもあることに気が付く。
救われるかの様な,
十三夜と,十五夜の月,
この電気、ガス,水道の無い地では
その煌々たる、溢れるばかりの耀きが
より、堂々としたものに見え,
僕のこゝろは唯,浸るのみの月光浴
眠れなく、微睡みに委ねた夜。
木陰で啼く鳥にさえ
さまよう山羊と羊たちにさえ
何かを気つかせてくれるかの様に
縋っているこゝろのひびきを。
にほいとおと。
赤児の,子どもたちの,家畜の,労働の,
歩行と登校と下校時の,
バイクと車と
物乞いたちの
そして、あいさつを交わす
にほいとおと
賑わいのにおいとおと
静寂のにおいとおと、
おとは響き。
にほいは流れ。
この街の孤児院を訪れる機会を持った。
友人にお願いして訪れたこの世界は
36人の天使たちのはしゃぎ戯れ,悲しむ晴天の世界。
その子どもたちの人懐っこさとその笑顔と振舞い
確実に、僕の真こゝろを
遠くへ置き忘れていた自分へ戻してくれた
わずかな、わずかな数時間。
ここも、
“地図に載っていない場所”
自分の生い立ちを憶う場所でした。
巴里は初冬。
夜間飛行機は遅れることが当り前。
その大半が異郷人たち
飛行場へ着いての彼らたちが
出迎えの人との再会と
これからの”旅”への始まり。
その彼らたちの後ろ姿を見送り乍ら
僕も,これからの
がんばって死ぬためへの
”旅”への始まり
“地図に載っていない場所”をめざし、
そして,ここでも”知ってしまった”ことに対して
どのように自分が向き合って生きてゆけるか?
ここに人間のすべてが帰するのでしょう。
“地図に載っていない場所”を求めて。 」
ありがとう。
合掌。
www.rencontres-bamako.com
投稿者 : editor | 2011年11月18日 20:55 | comment and transrate this entry (0)
今見た,UNDERCOVERISMとは,
ありがとう,ジョニオ君、皆さん。
こちら,巴里でこれを見ていると感動です。
不思議ですね,僕がイエローだからそう見えたのでしょうか?
この世界はあなたたちが生み出した,“カッコ良さ”の世界。
正に,“YELLOW-MIND"がむき出し!!
それが僕が感動とカッコ良さを覚えた原因。
ジョニオ君たち世代の全く,”身じかな世界/自分たちの世界/“YELLOW-MIND"そのもの。
全くの自分世界をこれだけ,ダイレクトリ-に、世間に媚びることなく自分たちの好きなものだけで,
そして,新たな提案。
これからも,"YELLOW MIRACLE"をカッコ良く,堂々と引き摺ってください。
“3.11”以降に変わったのは政治でもなく,体制でもなく,
僕たち、日本人それぞれの,”こゝろの有り様”が変わったのです。
これを僕たちが自覚して初めてその行為が”世の中”を変え,”社会”を変え
そして,”新たな国”を作り替え始め,”安心”して子どもたちと遊べることが出来るのです。
これを感じられたこのコレクションと手法に感動と,ありがとうを。
これだけ、自心の世界観を持っていること。
それがこのようにあなたたち世代が新たな手法で世界へ挑戦した,
その勇気とがんばりに、“YELLOW PAWOR"に脱帽とともに,万歳!!!
ストリート+グランジェ+レイアード+ラヴ=まさに彼らたち世代が生み出したTOKIO美学。
ギターの響きは切なさをも。数少ないコーディネートは,ロングスカーフに帽子、バッジとシューズ
それにジョニオ君が好きなクラッチバッグ,この表現も彼の世界観の特徴、ミニマムな世界。
今,この世界が出せるのはあなたたちしかいないでしょう。
“横町”から飛び出して来て,いつの間にか”世界”を知って,戻ってくるところが有るという強み。
横道に反れてもそれはいつも自分たちの”立ち居場所”。
下心を持ってしまったために“蟻地獄”へ嵌ってしまっているデザイナーたちには出来ない,強み。
全く,もう,あなたたちの世代の時代です。
“東京砂漠”にも華が残り咲き続けますね。
時代が変わってもこの華は,きっと,誰かが水をやり,テイクケアーするでしょう。
嬉しい,興奮の時間をありがとう,ジョニオ君。
みなさまにも宜しく!!
合掌。
文責/平川武治:平成二十三年十月二十二日午後四時四十分/ST.-CLOUD市にて:
投稿者 : editor | 2011年10月22日 23:05 | comment and transrate this entry (0)
ひらかわ式パリコレクションを論じる。S&S2012/アラカルト編−2:
再び、CdG-川久保玲/『作品から商品への充分なる気使いと完璧性』
このブランドの展示会へ出掛ける。
どれ位の商品に対する完璧性があるか?即ち、着れる服なのか?を見るために訪れた。
「総てが着れる服である。」
ここにもこのデザイナーの決して変わらぬ服への想いが、こゝろの在り様が30年来不変で存在し続けている。
見事である。決して誰でもが着れる服ではない。
誰でもが着れる服の素晴らしさも、この世界のもう一方の入り口にはある。
しかし、このデザイナーが、この巴里へ進出して来て以来、最初は暗中模索で自分のやりたいこと、
訴えたい世界を持って、自分の立ち居場所をこの巴里と言う舞台で捜し始める。
結果、捜すのではなく、自分自身で立つことであり、示すことであると言う本質が解った時点から、
もう既にこのデザイナーの立ち居場所が廻りの異邦人たちによって認識された。
誰もが着れる服ではない、着辛いものもあるけれど、着難いものは少ない、
着るには勇気が、こゝろ構えが必要な服もあるが多分、一度着ると反対に寧ろ、
より、着たくなるまでの強さと同じ位にこゝろに染込むまでの何かがこのデザイナーの服にはある。
現在の所謂、“ブランド好き”人間たちは若い人たちも含めて、
”有名ブランド”と称されるこれ見よがしのラグジュアリィ-ブランドものを着たくなる人種たちとは
反対側に位置しているのがこのブランドの立ち居場所であろう。
この様なファッション大好き、ブランドもの大好き人種たちはその“ブランド名”が好きであり、
そのブランド名が付いていれば安心して自分もおしゃれだと自己満足,自己肯定するために
ブランドものを着たくなる表層人種であり、彼らたちは決して、“服”そのものを自分の生き様にかさねて、
選び、着るタイプの人種ではない。
総てが着れる服には、“温もり”がある、“想い”がある、“潔癖な”までのバランスある美しさがある商品だ。
以前と違う点は“温もり”感であろうか?
あれ程までに激しいまでのこゝろの有り様は”服”と言う形に成った時、
初めて、温もりあるモノに変わった。
それは色と分量としてのボリューム感と使われた素材にも言えるだろう。
シルクもある。ニットは手編み風のこなしであり、
ゴムパンツのブルーマータイプに使われたレースには恥じらいが。
クラッシックコスチュームを解体しての幾つかのコードも流石、
誰も付けたりはしないであろうこなし方によって旨くこゝろを訴えている。
3人の作家によるへヤーピース作品と一人の若い学生によるグラフィティは
それぞれが見事に存在を見つけ『結婚とはそんなに簡単な逃げ場なのか?』と言わんばかりに機能している。
その昔、アントワープの学生、最後の才能ある生徒のANGELO FIGUSの3年生のコレクションを思い出し、
YSLのロシアシリーズを浮かべ、エレファントマンやKKK団を感じてしまうが
造形的な美しさはここにもあり、今シーズンのメインアイテムとなった、コートは
肩の付け方を変えることで全体のシルエットが優しくなり、
美しい姿を与え、その美しさを袖の長さで誇張したフォルムは堂々とした豪華さを生んだ。
この辺りまで来るとトレンドを見事に自分世界で塗り込んでしまうまでの
このデザイナーの巧さの独り舞台である。
JULIAN DAVID/『小さなバジェット、大きな夢へ、頭のいい服創り』
もう、数年を日本をベースにビジネスをしている好青年、フランス-ユダヤ人デザイナー。
彼の様な“夢”と”行動”をバランス良く、自分の夢の成就のために自分は何をしなければならないか、
そのためにどのような関係性を築き上げれば良いかを知り、総て、自分一人で行動を起こし、ここまで来た青年。
才気ある行動力と時代を見る目は確りしている。
N.Y.をスタートに幾人かのファッションデザイナーの元で働き、アジアを旅し、日本へ。
そこで始めたのがスカーフデザイン。
ロングサイズとその図案が新しかった。日本で絹素材の産地を廻り、染色工場を捜し、
彼独自のグラフィックの世界をPCで組み立てデザインし、丁寧なパッケージでラッピングし、
世界のそれぞれの一流店と呼ばれるバイヤーたちとビジネスを始める。
ここには当然、ユダヤ人世界の関係性が機能しているものの、彼自身の目標へのアプローチと努力という
行動力がとても爽やかに伴っているところがいい。
彼のグラフィックは“STREET MIND"から,ストリートでの出来事を彼の目線で捉えた新鮮なデザインが良かった。
それがスケートボードのエッジであったりとなかなか、センスがいい。
デザイン、染色素材は総てMADE IN JAPAN.
これを日本で数年を続けて次なる目標へ挑戦したのが所謂、“パリコレ-デヴュー”3シーズンになる。
コレクションは新鮮だった。
SOMETHING NEWを感じさせる迄のまとめ方が巧い。余分なアイテムには眼も向けず、
必要なものだけを出来るだけシンプルにコーディネートして見せた。
今シーズンのトレンドのこなしとしてのゴムパンツもブルーマータイプもちゃんと入れている。
東京の路上に点在する或る種の奇妙さを彼の東京感による小さなディテールのこなし方で
”美しさと育ちの良さ”に変換し、そして、それらが総て、ウエアラブルな服で世界観を構築したもの。
ベーシック+ONEが特徴であろう。要らぬ、気取りのあるパターンはなくちょっとしたデザインこゝろがいい。
寧ろ着る女性たちの新鮮さに同調させたシンプルマインドなもの。
当然だが、プリントの使い方も巧い。
素材はオリジナルを始めて生産は総て、日本製。
デニムのジャガードなどと言う素材は手間掛かるもの、高価。しかし、旨く使って“MADE IN JAPAN"。
日本のファッション産業のインフラを旨く使いこなし、自分の経験をブリ-コラージュし、世界観を出している。
パターンメイキングがもっと、旨くなれば、もっと、彼の夢は広がるであろう。
今シーズンの特徴は彼の様な、”小さなバジェット、大きな夢”のコレクション。
そのためにはどれだけ”頭”を使ったコレクションが組み立てられ、出来るか?頭の良さが必要になって来る。
そこに、どれだけのセンスの良さがバランス感として現われているかに尽きる。
展示会も自分たちだけでやる。シンプル,質素倹約だが何か、新しい空気感を生む環境を作っている。
ここに、ユダヤ人たちの凄さと能力と努力の違いを感じてしまう。
なぜ、このJulianのようなタイプの若い日本人デザイナーが居ないのか?
それは彼は外国人、いらぬ、馬鹿げた日本のファッションコンプレックスなる人脈世界ヘ入らないからである。
センスなく、頭を使わないで、金ばかり使おうとするデザイナー気取り
海外で学んだと言って仕方なしに帰国する連中からは何も生まれない、出て来ないのが今の日本の問題点である。
自信、勇気がない、金が無いものは”学校”と称した安直,自己満で便利な他人の褌を共有しようと
ずる賢い弱者集団を構造を作り、それに誤魔化され便利に使われる未熟な世間知らずな連中とファッションごっこ。
これを凄いと持ち上げる日本のファッションコンプレックスにまみれてしまったおばさんたち。
その廻りに纏い付いている”下こゝろ”だけの輩たち。君たちは、責任を感じないでいいのか?
どうするんだ!これからの日本のファッションは?
”根幹なき理屈のプロパガンダ”だけではJULIAN DAVIDの様な行動力とその夢する世界は決して、出来ない。
文責/平川武治:
平成二十三年十月六日、サン-クルー市にて:
投稿者 : editor | 2011年10月04日 07:34 | comment and transrate this entry (0)
ひらかわ式パリコレクションを論じる。S&S2012−2/アラカルト編:
AGANOVICH/『見えるものが”歪んで”見え始めて来たモダニズム。』
この軽さと分量の戯れは何処かで体感した。
蜃気楼なのか? デージャブなのか?
それとも、僕自身の遥かな時間への時の逆廻りなのか?
しかし、それらは嘗てのモダニズムの中での総て。
決して、昨日でもなく、明日でもない。
たとえそこが故宮の中庭の一角に佇んだとしても、
絵になる美しさはあるだろうが、今日ではない。
僕にとっての今日とは今から起こりえる総ての時間の始まりでしかない。
結局、”モダニズム”とは歪んだミラーの前に立った自分自身なのだ。
見えるものが”歪んで”見え始めて来たモダニズム。
見えなかったものに懐かしさを感じさせてくれたショー。
所々に見え隠れする”明日”と言う断片を拾い集めるだけ。
ANTHONY VACCARELLO/『イエールからANDAM,この優等生コースを歩んで来た彼の実力?』
新しさがあった。
それが空気感にまで伝わったショーだ。
健全な姿態が或は、デカダンな容姿が先ず、必要とされる。
そこには既に、絶対的なエロスが宿っている。
そのエロスの表情を仔細に見取って自由に注意深くコラージュした世界。
ここには、少しモダニズムを超えた位置に彼の、このナイーフな青年の眼差しはある。
スカートはこれ以上に隠し切れない所まで若さ故の大胆さで切り取られている。
ボディーを覆うものは幾つかのパターン化された布の断片により着る女の姿態をよりエロスに委ねる。
しかし、そのエロスはスポーティーなディテールによって却って、新鮮さを与える。
当然だが、これらを構築するための素材は選ばれたものでないといけない。
ストレッチが効いた下着素材にメタルパーツが効き目を見せる。
アップルプリントにスワロスキーが小さく光るトップスのシルエットは’80年代を思わす分量まである。
トレンドのコンビネゾンも旨くこの世界でこなしている。
イエールからANDAM,この優等生コースを歩んで来た彼を
この街のファッションピープルたちは満足げに、自慢顔で優しく見守っていたコレクション。
彼の今後の成長はやはり、愉しみである。
投稿者 : editor | 2011年10月03日 04:28 | comment and transrate this entry (0)
やはり、これから始めよう。CdG川久保玲/パリコレクション2012S/S-1
ひらかわ式パリコレを論じる。
夏の残り火が狂い始めて連日のインディアンサマーな巴里、
そんな異常気象の天候の中、5日前から始ったパリコレも今日が中日。
論じたくなるまでのコレクションがやはり少ない。
CdG/川久保玲;
「こゝろ激しくも美しく、強かに悲しくも潔い女こゝろを感じ見てしまった。」
CdG,川久保玲のコレクションには久しぶりに違った世界の側からの
激しい想いが伝わりとても深く感動した。
ここには『特異性のみが存在し、特殊性は姿を現さなかった。』
これはもう、ファッションショーと言うカテゴリーで囚われない
そして、語ってはいけない世界であった。
余りにも、”本質”論的世界が提示されたからである。
一人の女の激しいまでの、自分が求めた世界に自分らしく、
自分にしか出来ない生き方を、がんばりを挑戦し続けて来た時間を創造したのだろうか?
一人の女の生き様を、押さえきれない迄のその感情を見事なまでに“服”化しようと努めた世界であった。
否、もしかしたら今日見せられたモノはそれらは世間で言うところの、
このファッションウイークのファッション-ビクテムたちが”服”だと思っているものからは程遠い、
ただ、崇高なる次元のこの当事者にしか表現出来ないこゝろに溜まり切ったデジャヴだったのかも知れない。
僕はそう感じた。そして、僕がショーの途中から気になったのは、
今現在、これを見ている会場の女性たちがどのような思いを感じ始めたのだろうか?
感情変化と移入、その結果として、自分の”生”に置き換えた時の
現実感がどのようなものであろうかと、終ってから一番気に懸かった事だった。
出来ればそれぞれに聞いてみたいと思った。
そして、僕が感じたのは、”これはドキュメントだ”であった。
例えば、嘗て、ダニエル-シュミットによって制作されたドキュメントフィルムの名作“トスカの接吻”を思い出す。
この’86年に制作された、作曲家ヴェルディが創立したミラノに実在する音楽家のための養老院“ヴェルディの家”を
舞台にした、そこに住む往年のオペラ歌手たちの生活風景をドキュメントした作品である。
今日のコレクションをモノクロのフィルムに撮って、年老いたご夫人たちに見て、着て頂きたいと思った。
彼女たちはどのように直接的な感情移入するであろうか? と。
それをまたフィルムに撮りたいと迄。
それ程迄に、僕には深くこゝろにこの次から次へと繰り返し、繰り返し現われる純白なシーンに嵌ってしまう。
純白であればあるほどに
この白い塊はそれが”服”と呼ぶには激しい過ぎる潔さを感じさせる連続であった。
確かに、これは“服”と言うかたちを使っての
このデザイナー自心のこゝろの有り様でしかない。
吐き出したい感情が出てしまったカオス。そして、気力と魂の化身。
純白はモノの有り様の根源を現すとともに、
総てを吸い込んだ結果としてのこゝろの在り様でもある白。
差し伸べさせられた手を前に縛られた女性の象徴的なプロローグで始った。
僕は日本人であるから、”角隠し”を思うところ、覆い隠す本心、拒絶された自由さ、
それらが泡沫によって顔迄も表層を被う。
一切の”表層のボキャブラリィー”を否定、拒否する迄の真こゝろの造形。
従って、表層から集め読むコードは殆ど意味をなす迄のものではない。
このデザイナーの”魂のカオス”でしかないからである。
30年近くの当事者としての信念と自信と責任がここにはあるだけ。
決して、過去にこだわった世界だけではない。
現在に通じている総て。
『では、女たちは自由が得られたのですか?』と言う
このデザイナーしか創造出来ないジェンダーなメッセージ。
こゝろの手足が出せない女たち。
“かごの中の蝶”
華に被われる女たち
華に託する女こゝろ。
もう一つの顔をわざわざ被らなければならない日常性。
路上に当り前の様な風景に馴染んでしまった”グラフィティ”の断片を
自分の魂の断片として切り取る強さ激しさ。
ここにもこのデザイナーの変わらぬ”パンク魂”が読み取れる。
このグラフィティをこれほど迄に“エレガンス”に使いこなす技は自信と凄みからの姿。
これを見せられ、”当事者”となってしまった女性たちは何を感じたのだろうか?
何を憶ったのであろうか?
今後、どのような行為をするのだろうか?
『見てしまった僕たちが出来る事とは?』
3.11以降の日本人しか持てない変わってしまったこゝろの在り様。
これは決して、この街で行なわれて来た長い歴史の中での
ファッションショーではない。
華をも白くした塊と言う美しさを借り創造された”ドキュメント”。
これは“場違いなハプニング”。
このデザイナーの存在そのものが、彼女の立ち居場所そのものが
この世界では永く努力し、継続し続けて来た“ハプニング”である。
彼女の真こゝろの,華迄白くして仕舞うまでの純白を見てしまった僕。
25年を続けてみせて頂いて来た僕は
辛く、嬉しくこゝろ晴れ晴れ、
今回も、当事者の一人になる機会を,勇気を下さって、
ありがとうございました。
文責/平川武治:
投稿者 : editor | 2011年10月02日 16:55 | comment and transrate this entry (0)
“9時間のカオス”、無事に終わったVACANTファッションパーソナルコーティングの催しの御礼。
VACANTの皆様のご行為とご協力で
”ファッションパーソナルコーティング”なる初めての会もおかげさまで無事に催すことが出来ました。
9月11日、あの日から半年が過ぎた日。
12時からもう既に待っていてくださった最初の方から始った
この僕の念願の企画、”パーソナル—コーティング”/ファッションの事なら何でもお答えします。は
結局、追加の一人を加えて気が付いたら21時を回るまでの”9時間のカオス”でした。
それぞれがいろいろな質問を携えて来てくださった、勇気ある8人のみなさまに、ここでも、感激と感謝。
ありがとうございました。
ここでも、僕の直接的な勉強に繋がり、新しい人との出会いに通じ、
僕のこの発想の目的が潔かった事が実証され嬉しくなりました。
現実の9時間ほどはまるでマラソンでした。
飲み物だけ。始める前に軽い食事を取っておいたのが正解で、
その後は時間延長の重なりでトイレに行くのがやっとの
正にマラソン状態の愉しいこゝろの有り様と心地良かった肉体と精神のほどよい消耗。
ご参加の皆さん、どうもありがとう。
ここから、いい関係性へ発展出来れば僕もしあわせです。
そして、終ってからVACANTのようこさんが出してくださったマクロビューティ健康食。
これが、“美味かった!!”
ここでも、感謝でした。
この”パーソナル—コーティング”/ファッションの事なら何でもお答えします。は
今後も、継続してゆきますので,皆様,変わらずご関心をお願いいたします。
ひらかわに直接聞いてみたいファッションの事、モードの事そして、世界の事、秘密の事,、、、、、、
一期一会、真剣勝負、対面談話、この機会を、
参加して頂いた皆様へのお礼状。
『 先日はあの様な会へ勇気あるご参加に感謝と御礼を。
ありがとうございました。
如何でしたか?
思っていらっしゃった事が充分にお聞きになられましたか?
又、内容にご満足頂けましたでしょうか?
僕もみなさまのお陰で、いい時間が皆さんとの出あいと共に過ごすことが出来ました。
ありがとう。
初めての試みだったので僕の方もどのようにみなさまとのコミュニケーションを取れればいいのか、
その距離感を計るのに始終いたしました。
もし、その後、何かのご質問等が在りましたらご連絡ください。
21日より巴里ですが、このメールにてコミュニケーションは取れます。
”夢”に対してリアリストになること。その行為としての”決断”。
その決断に必要なこととは責任感あるピユアーな勇気とこゝろの自由さ、
単なる知識ではない
最も単純なる人間性。
ご自愛と共にお励みください。
相安相忘。
ひらかわ:
投稿者 : editor | 2011年09月15日 16:09 | comment and transrate this entry (1)
平川様
先日、貴重なお時間を頂き私もいい時間を過ごすことができました。あれから「大河」を築くためにのリスクとコストをどうかけて自分の生き方の責任を自分なりに考えました。そしてまだ考えはっきりとした答えは出ていませんが、自分自身のための条件を持って自分の居場所を明確にしたいと思いました。
そのために頭の中にいつでも風が通れるように窓を開ける努力、平川さんが仰っていた特異性を持ち続けるためのoriginalの追求をしていきたいと強く思いました。
全ては人間性ですね。話すことで明確にできました。
この場をお借りして改めてお礼を伝えたくてコメントさせて頂きました。
ありがとうございました。
最終編『モードを語るとは,モードを評論するとは?』—五。
”感性の問題と政治の問題そして産業の問題は一体”を成しているのである。
『私が特異(唯一)性を失えば、私は自分のことをもう愛せない。
自分には自分だけの唯一なものがあるという秘めた確信があってこそ、
人は自分を愛せるのであり、
それゆえ「共同体とは根源的に自分から自分への親密な絆によって成り立つ」のである。
芸術に関して言えば、芸術とはこの感覚し得る特異性の体験(実験)でありその支えであり、
この特異性こそが、象徴的なものを生む活動、すなわち集団的な時間において痕跡を残し、
また他者の痕跡と出会う活動にわれわれをいざなうものなのだ。
以上のように、”感性の問題と政治の問題そして産業の問題は一体”を成しているのである。
B.Stiegler『象徴の貧困』より。
僕の学びと経験から言える『モードを論じるとは?』の大切な心得を幾つかのポイントで上げてみよう。
1)”世界”を知る事、そのために経験すること。
2)自分の”立ち居場所”を明確に持つこと。
3)そこでの自分自らの”眼差し”を持ち、オリジナルな”ボキャブラリィー”を持つこと。
4)今と言う”時代”を読み解き、明日と言う”未来”へのイマジナリ—ボヤージュを楽しむこと。
5)論じる場合も自分の”こゝろの有り様”を100%に行為する事。
これらがどの程度のバランスで構築されて論じられたモノかで、秀作、駄作、書かなくてもいい、
こんな事わざわざ今、言って貰わなくてもと言う決断が為され他の人たちが論じ書かれたモノを評価する。
蛇足であろうが、もう少し説明を加えよう。
1)”世界”を知る事、そのために経験すること;
「ファッションとは何か?ファッションの世界とはどのような世界なのか?」この認識度がそれなりに必要。
これによって、ただの見えている所謂、表層をどの程度論じているだけなのか、その論じているレベルが見える。
ファッションビジネスの世界は社会のどのレベルと領域に位置していて,構造はどのようになっているのか?
ファッションクリエーションの世界とは?その規範とは?自由とはどの程度までを言うのか?アートとの関わりは?
ファッションビジネスの究極の価値は?”イメージを売って儲ける事。”
ファッションクリエーションの究極の価値は?”時をクリエーションし、スピードをデザインすること。”
ファッションは資本主義消費社会の産物である。
この程度の事はファッションを論じる者が責任としてフィジカルに持っているべき“共通言語”である。
誰が読んでも”ジャッジ/決断”が出来る共通認識と共通言語が使われていること。
2)自分の”立ち居場所”を明確に持つこと。
ファッション世界での立ち居場所。—創造性/産業性/商業性
位置的立ち居場所。—日本/アジア/世界/不明
時間的立ち居場所。—現代/過去/ヴァーチャル
距離的立ち居場所。—当事者/傍観者
性的立ち居場所。—女/男/同性愛者
身体的立ち居場所。—”頭でファッションを見る/身体でファッションを感じる。/こゝろでファッションを知る
/Mix.
3)そこでの自分自らの”眼差し”を持ち、オリジナルな”ボキャブラリィー”を持つこと。
自分が持ったファッションに対しての立ち居場所から学んだ事、経験したファッションへ”視点”を持つこと。
自分が選んだ立ち居場所から、”専門”を持つこと。
もう一つ、自分が選んだ立ち居場所から、”表層”を論じるのか、”深層”を論じるのか?
そして、ファッションにおける共通言語を理解した上で、
独自の形態言語を持つこと、自分のボキャブラリィーで論じる事。パーソナリティを造ること。
そこに、ボキャブラリィーの”新鮮さと斬新さ”が必要。特に、時代性を論じる場合は不可欠。
論じる者の虚像が文章化されるにはこの”眼差しとボキャブラリィー”が独自性を生む。
4)今と言う”時代”を読み解き、明日と言う”未来”へのイマジナリ—ボヤージュを楽しむこと。
ファッションの新しさとは時代の”モダニティ”である事の種明かしをする。
新しさとしての時代性/社会性/文化性/女性像/男性像/人間像/等を読み解くき、
”示唆”する内容とボキャブラリィーが必需。
現状把握からファッションの世界における明日と言う”可能性”を投げ掛ける、未来を示唆する。
ファッションの究極の価値は?”時をクリエーションし、スピードをデザインすること。”であれば、
そのための新しさとしての”時を探る事、時を読むこと”。
時を感じるモノとしてのイメージから、体感した共通の”エピソード”を語り合うまでのモノ化を論じる。
そのための”共通感受性”を仕掛ける。
5)論じる場合も自分の”こゝろの有り様”を100%に行為する事。
ファッションを論じるとき、そのこゝろの有り様は100%、自分の有り様である事。
自分のこゝろの有り様でない場合は論じてもそれは書き連ねてた”下こゝろ”あるレポートでしかあらず。
その切り口はフニャ、フニャで潔さ、心地良さが感じられない。
さてこのシリーズ、『モードを語るとは,モードを評論するとは?』はこれで終わりです。
このような事を羅列しましたが、本当は学んだ事を持って、経験し又、不足なところを知ったなら、
再び、学び、と言う繰り返し、これを経験と言うのですが、
この“経験”を繰り返しそこに、自分自らがデシプリンしてゆく事で自然に身に付く事でもあります。
ですから、ここに至らない人が”経験不足”と言われ、自己満足な”レポート”になってしまうのでしょう。
例えば、インタビュー文を読むとこのバランスが結構よく見えます。
今、なぜ、このデザイナーをインタビューする”価値”があるのかに関わって来るからです。恐いです。
お終いに、今僕のこゝろの有り様が気になっている一文を、
『人間であることが恥ずかしいという思いを、
われわれは全く取るに足らない様な状況でも感じる事があります。
たとえばあまりにも低俗なものの考え方に出会ったり、
バラエティ番組を見たり、大臣の演説を聞いたり、
「鈍い楽天家」の言葉を聞いたりしたときです。
恥とは哲学をするためのもっとも強力な動機のひとつであり、
それによって哲学は必然的に政治哲学となるのです。
資本主義においては、普遍的なものはひとつしかなく、それは市場です。
普遍的な国家というものがないのは、それはまさにひとつの普遍的な市場があるからで、
すべての国家はその市場の単なる中心地、つまり証券取引所なのです。
その市場は世界を普遍化させたり、同質化させたりするどころか、
それは桁外れの富と貧困を生産する機構です。
人権を考えれば資本主義の「喜び」を讃えることなどできないでしょうが、
実際は人権も資本主義に熱心に参与しているのです。
民主主義国家で、この人間の貧困の生産に芯まで加担していない国家などありません。
恥ずかしいことに、われわれには生成変化を守るための、
まして生成変化を芽吹かせる(自分たち自身の中にさえ)ためのいかなる確かな方策もないのです。
なぜなら、われわれに今日あらゆる恥じる心を失わせている戦争とは経済の戦争なのだから。
そして、この経済は欲望と情緒を失わせ、そこで動員される武器はマーケティングによって操作されている。
———マーケティングは今や社会のコントロールの道具である。』Gilles Deleuze/Pourparlers,p.86
こんな事をおさらいしてしまった僕は、友人から頂いた本を読む事の大儀さが僕を蝕み始めました。
ありがとう。
平成二十三年九月十五日;
文責/平川武治:
投稿者 : editor | 2011年09月12日 22:00 | comment and transrate this entry (0)
決して”曖昧さ”だけが残らないように、『 知ってしまった、6ヶ月目の僕たちは何をすれば? 』
どうか、近代性のシンボル,原発企業事故災害が『あきらめ』の
同義語となって行く事の無いように,“分かち合うための一つの提案。”
2010年3月10日の未明、
鎌倉の鶴ケ岡八幡宮の境内の樹齢1000余年の大銀杏の大木が強風によって突然倒れる。
その後、孫芽が少し緑を出し始めこの大銀杏の未来へ、多くの参拝者たちも願いを込めていた。
その1年後の2011年3月11日、“東日本大地震”。
丁度、大銀杏が突然倒れて、1年後に大津波とその後の影響を受けた原発企業災害事故の勃発。
それ以後、大銀杏の残された根っこの部分から
小さなうつくしい緑の孫芽が育ち始めていたのが枯れ始める。
現在は金網が張られてその中で大切に化学養生されている。
ここにも、“自然”は正直であり、
“自然”は無言で、顕著に現実と変化を受け止めている。
先ず、僕たちは謙虚に”自然”からいろいろ学び、共生する真こゝろと知恵を持ち直そう。
そこに僕たちイエローしか出来ない
“自然”の愛し方を日常生活の中に持ち直しませんか?
僕たちの国土を、僕たちの同胞が穢してしまって、半年が経過しました。
本質的な進展がどれ位在ったのでしょう。
これからの僕たちの國を支えるはずの
子どもたち、赤児たちへの責任と決断が何れ程なされたのでしょうか?
この原発企業事故災害は決して、同胞たちの”あやまち”では在りません。
世間では、寧ろそれなりの社会的立場を持ち得た教養ある”尊敬される学歴を持った、
立派ないい人”たちが目の前に吊り下げられた”人参—名誉/金”のために起した
人間の品格が欠如したところの企業事故です。
或る意味で、
僕たちの國の戦後と言う時代と構造が育んで来た寂しい人間たちの現実の一面でもあるでしょう。
前回、巴里へ戻る前に幾度かの”原発反対”集会やデモに僕なりに静かに参加しました。
しかし、ここにも以前の”左翼系”と自認している人たちと
彼らたちをそのように見てしまっている人たちの集団性だけが
強く感じられてしまったのが現実でした。
’92年以降,世界の冷戦構造が消滅し始めると自分たちの立ち居場所が無くなり始め、
その後、国内の政治自体も与党と野党が逆転してしまった事によって、
彼らたちの立ち位置が完全に不明瞭になって来た事で余計に仕方がない動きなのでしょう。
僕の若い頃には“平和主義者”と言われる人たちがいました。
僕は、自分たちの國の国土を自分たちの人間性の欠如の結果の行為によって穢したこと。
『國が穢された。』当事者としての国民の不安と悲しみ、
これからの僕たちの國の未来に生きる人たち,即ち、子どもや赤児たちの日本を思い考えると
やっぱり、今回の企業災害事故については、
はっきりさせるべき事,原因と現状と将来への対策とケヤー等を
出来る限りの責任と勇気ある日本人としての”真こゝろ”によってはっきりさせなければいけない。
今回のフクシマ原発企業災害事故の今後、起るであろう被害を”分かち合う”事を提案をいたします。
日本にも多くいる、”高度成長期”とその後の”バブル期”を所謂、”ノン-ポリ”で経て、
それなりの資産を蓄え優雅な老後生活を送っていらっしゃる“シニア成金”たちのみなさんは無論の事、
年金を貰っていらっしゃる皆さん、
お願いです。
どうか、率先して”放射能汚染野菜食品”を食べてください。
少し、学ぶこゝろを持って知識を持てば理解して頂けるはずです。
“汚染されていない野菜や鮮魚”は子どもと若いお母さんたちが
何の不安もなくいつものように安心して食べれるように、
”がんばって生きる”人たちのために、
配慮し、仕分けを実践してください。
そして、食べてください、”汚染野菜食品”を!
”がんばって死ぬため”に生きている人たちが出来る事の
今、一番大切な事ではないでしょうか?
お願いいたします。
僕の日常生活もこの意識で行動しています。
この様な配慮ある処置を,仕分けをそして、社会的構造を造ってください。
國や地方自治団体やそれなりの関係者たちがこゝろある決断を速やかに行なってください。
この処置によって生産者側の皆さんへも多くの勇気と可能性をもたらすのではないでしょうか?
おねがいします、もし、この想いに賛同してくださるなら、
若い世代のみなさんたちが日常的に使っているPCメディアやツイッター等を駆使して叫んでください。
『どうか、自分たちの子どもたちの未来の日本を惨めな国にしないために、
シニア成金、年金生活者の方々は率先して”放射能汚染野菜食品”を食べてください。』と!!
自然界の“循環作用”に委ねましょう。“イエローミラクル”を喚起しましょう。
そして、被害地に奇跡的に残った”一本松”が枯れないように真こゝろで見守り下さい。
ありがとう。
合掌。
平成二十三年九月十一日。
文責/平川武治:
投稿者 : editor | 2011年09月12日 18:39 | comment and transrate this entry (0)
『モードを語るとは,モードを評論するとは?』—四。
モードを語るために、論じるためにどのようなデシプリンが必要か?
『—— 王さまは ごうかな天がいを さしかけられて、
あるいていきました。
町の人たちは、みちばたに むらがったり、
まどに すずなりになったりして、
王さまのあたらしいふくを、けんぶつしました。
ふくがみえない ばかものだと、他人に 思われては こまります。
ですから 町の人たちは、せいいっぱい ほめました。
「きれいだなあ」
「すてきなマントね」
「まぶしいぐらいに、おにあいだ」
ほめそやす声で、町じゅうが どよめきました。
「うそだ。王さまは、なにも きていない。はだかだよ!」
子どもが ひとり さけびました。——— 』
「はだかの王さま」アンデルセン作/木村由利子訳/村上豊繪/mikihouse刊:
僕が小学生最後の学芸会でこの『裸の王さま』のペテン洋裁師を演じさせてもらった。
もう、半世紀も以前の事であり、或る意味で僕にとっての一つの『育ちのボキャブラリィー』でもある。
そして、結果、この様な現在の仕事に携わることになりやはり、いろんな場面で思い出す事が多く有る。
どのような身振りで演じたかさえも思い出す事がある。
僕にとっての究極の、”モードとは?”に、
“THE FASHION IS ALWAYS IN FAKE."と言うボキャブラリィーが有るが、ここが一端であろう。
僕の’80年代末から’90年代末までは一番沢山のショーを見せて頂く機会を与えて頂いた。
この時期は巴里のコレクションを始め、各國の学校、コンテスト等を廻り、
一シーズンで400以上のコレクションを見る経験を継続して来た。
これは時代的にも恵まれていた。モードの風向きが一番激しく、豊かに面白く自由な風の風向きであった。
“創造”と“創造性”が溢れんばかりにコレクションに現われた時代だった。
多くの素晴らしい、若いクリエーターたちはまるで“カッコいいマジシャン”たちであった時代。
ここにはまだ、“特異性”が燦然と耀き、存在していた時代。
前回書いた、”特異なモノが特殊なモノに”変えられてしまう、前夜情況であった。
見る側でも”ファッション活動家”たちが沢山誕生した時代であった。
そんな彼らたちと出会い、特異なモノを共有し、コンペディションする事そのものが仕事であった時代。
経験から持ち始めた”継続して視ること”の大切さとそこから生まれ学べた価値観。
このために巴里にアパートを借りた。
年に4〜5回の東京—巴里の移動のための時間と体力と資金。
見せて頂くために持ち得なければならない”信用”と
学ばなければならない時代性やモード観。
これらは総て、見せて頂きそして、書き手としての”デシプリン”である。
この僕しか出来ないオリジナルな経験へ“リスクとコスト”を張って、継続して来た結果、
モードの巴里と言う現実世界での、日本に居ては経験出来ない多くの出会いが在り、
好奇心揺さぶる、興味深い人たちとのリアリティ深き、”関係性”を持つことが出来た。
感謝のみである。そして、貴重である。
もう、この様なピアーな激しさと自由さのモードの時代の再来は絶対に、全く不可であるからだ。
このような時代に“当事者”として、想うモードに深く、永く関わられた事はsupreme blissである。
お判りのように”モード”には造る人も、着る人、見る人をも至福にする”FAKE"さがある。
しかし、唯モードを論じる人たちにはなかなか、この“FAKE"さが見えないし楽しめない。
なぜなら、多くは自心の身体でファッションを感じず、ファッションを寧ろ、頭で視ている人たちである。
ここには論じる側の思うロマンティズムや下こゝろは在っても、愛やデシプリンがないからである。
今夜は、友人が京都から持参してくださった“CHIANTI,キャンティの30年”史を愉しく読ませて頂こう。
いつの間にか、日本のファッションに携わっている人たちが“ヤンキー”系で多く占められるようになった
なぞが読めるかも知れない。
平成二十三年九月八日:
文責/平川武治:
投稿者 : editor | 2011年09月08日 12:19 | comment and transrate this entry (0)
『モードを語るとは,モードを評論するとは?』—参。
モードを語る前に、”象徴の貧困”としてのモード化社会。
『我々の今日的社会はコントロール社会(管理される社会)と言う調整社会であり、この様な社会に於いては
バランサーとしての感覚的な武器が必要不可欠である。』
Jeremy Rifkinはこれを『文化資本主義』と論じた。
/「アクセスの時代—Age of Access」/渡辺康雄訳;集英社刊/01年:
例えば、以前読んだ本に、このような一文もあった。
『ハイパーインダストリアル時代には、感受性は執拗なマーケティング戦略攻撃に晒されているが、
その感受性こそが今、紛れもなく起っているあらゆる種類の戦いの争点となっていると言う事。
その戦いの武器はテクノロジーであり、被害を受けるのは個々のそして、それぞれの集団
つまり、異文化/異民族の特異性であり、今や文化資本主義の下、我々の消費社会は
”象徴の貧困”が果てしなく広がるに至っていると言うこと。
例えば、武器としてのオーディオヴィジュアルやデジタルと言ったバーチャルな感覚に関わる技術を
コントロールする事が問題なのでありそして、その技術のコントーロールを通じて、
魂とそれが住む身体の意識と無意識の時間までをもコントロールしようとの企てが始る。
それは”流れ/フロー”をコントロールする事で”意識と生”の時間を調整する事なのである。』*
*“DELA MISERE SYMBOLIQUE 1. L'epoque hyperindustrielle"
By Bernard STIEGLER EDITIONS GALIEE,04/Paris.
そして、世界は確実にある一つの流れの方向へ導かれている。
世界規模で最近、実施された地デジ変換の目的の一つもこの範疇である。
インターネットを介したTVとPCの統合により、明日の『テレヴィジョン』端末は
『テレアクション』端末へと変革する。
そこでは、文化資本主義の下に文化産業が産業全般そして、今後の情報社会の基幹産業となる。
(映画+TV+ゲーム+音楽+フットボール+ショッピング+金融=テレアクション)
世界はこの21世紀になって以来、
文化資本主義の下、文化産業をビジネス構造化するための”文化価値”と
感覚的武器の一つである芸術の価値即ち、”美-美意識”の“価値判断”の唯一統合化に依って、
”特異なモノが特殊なモノに”変えられてしまう。
そして、国際銀行家たちの最終戦略は中国貨幣、元の決断によって今後、
”世界統一貨幣”計画の秒読み段階へと流れ込む。
彼らたちにとって変わらぬ世界とは、
コントロール社会(管理される社会)が”金融—価値観—武器”の新たな調整戦略によって
より高度な技術による、コントロール社会(管理される社会)へと進化,革新してゆく事。
これが今後の、世界の”グローバリゼーション”の本意本質である。
こうして”未来”を読んだ場合、
ファッションの世界は“象徴の貧困”が表層化されるだけであろう。
そこに“表層のボキャブラリィー”がより、フォーカスされ、”特異な文化が特殊な世界に”変えられてしまう。
例えば、ファッションに於ける“象徴の貧困”とは、
ラグジュアリィ—は、金メッキ化されたヴァニティな世界でしかなく、
“流行/トレンド”とはフアスト-ファッションである。調和のための創造は“キッチュ”へと流れる。
救われる、唯一の身体の意識と無意識の時間のための”武器”は“過去”の使い方である。
この過去とは“共有したノスタルジア”の不連続な連続における集合体として甦る。
ここでの価値は”未来のイメージ”ではなく、過去へのイメージであり、
それ以上に共有し得る”エピソード”のヴィジュアル化と“コスチューム”化が
”ハイパーインダストリアル社会”の新たな”武器”だ。
象徴が貧困化すればするほど、嘗ての”カッコ良さ”がノスタルジー化され,
美化され語り続けたい”エピソード”になる。
ここにも、『”成熟”を拒否し始めた世代』の表層が見える。
このような時代観を自らの”形態言語”の環境としたとき、
モードを語る人たちは何を語れば良いのか?
『誰が』『いつ』『誰に向けて』『何のため』それらを作ったのかという事を
どのような”立ち居場所”で、どのような”眼差し”で、どのような”ボケブラリィー”で、
どのような”未来”へ向けて語られるのだろうか?
次回はこれらをもう少し、具体的にまとめてみましょう。
文責/平川武治:
秋への誘い月は恥ずかしさの半月/平成二十三年九月七日早朝。
投稿者 : editor | 2011年09月06日 23:53 | comment and transrate this entry (0)
『モードを語るとは,モードを評論するとは?』—弐。
『表層のボキャブラリーに潜む本意に気づく事』
評論とは持ち得た”知識”のみで媚びる事ではない。
評論の眼力とは、メディアを鵜呑みにするのではなく、書かれた評論を妄信するのではなく
『誰が』『いつ』『誰に向けて』『何のため』それらを作ったのかという事を
客観的に調べて、どのようなメディアも『真っ白』ではない、寧ろ、黒に近いグレーでしかない。
そこには必ず政治的、社会的、資本的メッセージが有り、
もう一つ下には総てに金の流れが有り、下心が有る。
即ち、本意の伝達と任意の関係性が存在すると言う事をラジカルに見抜くリアリズムである。
これは個人が主体的に生きるための学習でもある。
評論すると言う事とは、それらを見抜く事,その眼力を持つ事から生まれるべきである。
人やモノが持ち得た ”育ちのボキャブラリィー”に
具体的且つ、客観的に専門的に関わる事が評論のための行程の始まり。
そこに独自な評論の眼差しと遊びこゝろが生まれるはずである。
自心の形態言語が生み出され、そこが評論を行なう人間の立ち居場所である。
評論する事の必然とはオリジナリティ豊かな形態言語である。
他者のボキャブラリィーのコラージュだけではなく、
自心の文化から発する言霊を社会の為にぶつける事である。
勿論、総ての行為に必然である、論じる側の人間性が大本である。
では、モードを語るとは,モードを評論するとは?の具体的な展開は次回へ、
台風のあとの蝉時雨のなかで。
平成二十三年九月四日深夜:
文責/平川武治:
投稿者 : editor | 2011年09月05日 13:08 | comment and transrate this entry (0)
9月11日、この様な事をやってみます。” ファッション、耳年増になるためのパーソナル-コーチングの会 ;第壱回 ”/ VACANT編。
『 あなたのファッションの不安や迷い,決められない決断に
そして、メディアが載せられない事実等、マンツーマンで、
”ファッション、耳年増になるためのパーソナル-コーチングの会
;第壱回”/VACANT編。』
35年以上の経験を生かし、
ファッションについての、”学び、学校、コンテスト、仕事、創作、
儲け、愉しみ、、、”ご質問を直接うかがって、個人的に総てがんばって答えます。学生、社会人、企業人どなたでも、お気軽に!!
例えば、平川武治が経験したヨオロッパのモード学校について、
海外の学校で学んでみようと迷い、悩んでいらっしゃる方、
『浦島太郎』にならないためのヨオロッパモード系学校への留学とは?
又、海外のコンテスト諸事情とは?
”巴里”へのランディングの方法、
ファッションメディアが報じない本当のお話等など、。
個人のご質問、好奇心に出来る限り応じる”パーソナル-コーチング”の開催です。
ぜひ、お気軽にご参加を!!
◎場所/原宿VACANT
◎日時/平成23年9月11日12時オープン~19時頃まで。
◎料金/時間制とします。
基本料金:~45分/¥2500円(飲み物付き)& 延長料金;30分毎/¥1000円
◎予約制:VACANT/booking@n0idea.com
名前、人数、希望時間、連絡先を記入の上、メールにてご予約下さい。
出来れば、前もってのご質問事項をお知らせくださればより的確なコーティングが可能です。
尚、満員次第閉め切らせて頂きますのでご了解ください。
◎併設/”ひらかわの古書カタログカウンターセール”有り。(当日限り)
この様な初めての事に挑戦します。
愉しく穏やかな時間がご参加のみなさまと共有出来れば嬉しいです。/ひらかわ:
投稿者 : editor | 2011年09月02日 22:29 | comment and transrate this entry (0)
『モードを語るとは,モードを評論するとは?』
『モードを語るとは,モードを評論するとは?』
その-壱;”成熟”を拒否し始めた日本人たちへ。
先日、友人から一つの詩を送って頂いた。
『 ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ 』
既に、ご存知の方も多くいらっしゃるだろう。
これは茨木のり子さんの詩,「自分の感性ぐらい」である。
僕の経験から、自分が為す行為とは
すべての事は自分のこゝろの有り様から誕生,甦生する。
従って、自らの行為の総ての起承転結とは
自分から始って自分へ帰する事である。
と言う事は、
自心の質の深さと自心の器量が自分自らの行為の本質であり、
その責任所在が実態であり
総てに、この”調和”が必要必然となる。
物事には総て目的が有り、それに一番適した方法が有るはず。
それを捜してやる事が人間が出来ること、それを”行為”という。
そのために頭を使う事が出来るのも人間。
そのために習性だけで行なうのが畜生。
しかし、考えてみると、どちらも大切。
習性には知恵が働いているからである。
この二つの”調和”が必要、大切であり、こゝろの有り様の姿。
この自分らしい調和を豊かさと言われ、個性と言われる。
人間が為せる行為とは自分のこゝろの有り様から発せられた
この目的に見合った”調和”でしかない。
この調和には自由と勇気それに、決断心が必然でもある。(つづく、)
茨木のり子/http://ja.wikipedia.org/wiki/茨木のり子
夏の終わりの兆しを運ぶ雨の彷徨いを聞き乍ら、
合掌。
文責/平川武治:
投稿者 : editor | 2011年09月02日 21:59 | comment and transrate this entry (0)
『LE PLI-VACANT夜話会-其壱の会』村上カイエ様をお迎えして。
ごあんないです。
こんにちは、猛暑の夏のニュースを聞いています。
お元気でいらっしゃいますか?
巴里から戻り、此の様な会をいたします。
もし、ご興味、好奇心が湧かれましたらぜひ、ご参加ください。
『LE PLI-VACANT夜話会-其壱の会』
今回、モードの同人誌『LEPLI-夏編』発刊の機会に、
このような夜話会をVACANTの皆さんと企画をいたしました。
熱帯夜の原宿で頭を冷やしてみませんか?
*
第1部;平川武治のモード噺。
シリーズ/「”なぜ、このデザイナーは凄いのか?”YSL編。」
いろいろなご意見が交わせれば愉しいです。
第2部;平川武治の旧友インタヴュー。
シリーズ/『質屋の息子は眼が肥える』
ご客人;村上カイエ様
クリエイトディレクター: SIMONE INC./www.ilovesimone.com
「学校で学んだ事で大事な事って、ありました?」
夜話会の日時;平成23年八月五日午後七時より、三時間程。
休憩有り、”茶と菓子”付き。
夜話会場所;原宿VACANTに於いて。
**
恐れ入りますが、ご出席ご希望のお方はお手数ですが、
VACANT/担当;大神迄ご予約をおねがいします。
VACANT booking@n0idea.com
※件名を「LE PLI 」とし、本文に「お名前/人数/ご連絡先」を記入したメールをご送信ください。
※万が一、2,3日経っても返信がない場合は、
03-6459-2962(VACANT)までお電話ください。
愉しみにしております。
ありがとう、ひらかわ:
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投稿者 : editor | 2011年07月20日 23:19 | comment and transrate this entry (0)
Ecole de Chambre Syndicale PROMOTION-2011を見る。
クチュールのコレクションも終るとこのシーズンのこの街は急に街の顔が変わリ、様も変わる。
知り合いの顔がバカンス先へ移動し始め、少なくなり始める。そして、旅行者たちが。
そんな時期に新しくなったサンディカ付属学校の4年生の卒業作品のプレビューがあった。
今年の春、コレクション終了後に新校舎へ引っ越して来て、新たな場所で、
より広く環境とその先生たちもリニューアルされて始ったこの学校の立ち居場所と
そのレベルと目的がどのようなものかを見に行った。
僕のこの学校の認識度は、オートクチュール協会の付属校で、クチュールで働くお針子さん養成学校である。
従って、ミシンは使わず、いわゆる、手仕事でどれだけのフランスの文化の一端としての
クチュールの世界が表現出来るか? これを習得させる学校であると。
しかし、今回、美しい新たな環境でのこの学校を訪れて感じた事を幾つか書こう。
一番に感じた事は、既存校である、“I.F.M."(フランスモード研究所)との差異は何処なのだろうか?であった。
このI.M.F.も確か、YSLとP.ベルジェたちが30年程前に寄贈した学校である。
当時はこの街のクチュールビジネスを健全に継続させてゆく為の最新の学校であった。
付近にはクチュールハウスが軒列ぶ、モンテーヌ大通りの近くに在ったのが
数年前にこの学校もオーストリッツ駅向かいのセーヌの河畔に建てられた新建築に移動し、
クチュールの”現場界隈”から遠のいてしまった。元来、この学校は巴里のモード関係学校では
その当時、一番新しい構想を持って始められた学校であり、その目的はやはり、
此の国の文化の一部であるオートクチュールの世界とそのビジネスを
今後の世界変化に対応させ、継続させてゆく為の”ビジネス”と”マーケティング”がメインであり、
そこに後から“クリエート”が加わって現在の構造になったはずだ。そして、現在もこの構造は継続されている。
このクリエート科のディレクターは十数年以来の友人のマダムフランシーヌであり、
彼女は元々、ブリュッセルの“LaCamble校"から招聘されていらした人で先日、お会いして来た。
今回のこのサンディカの付属学校の移転とその新たなカリキュラムによる生徒たちの作品は
過去に、I.M.F.で幾度か既に、審査員をさせてもらった僕としてはこの両校の”差異”が見えなかった。
先ず、これからのこのサンデヵ付属学校では生徒たちに何をメインに教えるのか?
“技術”“創造性”そして“時代性”この三つをこの学校が教えるのか?
では、どのようなバランスで教えるのか?その目的は、何処にあるのか?
これらがはっきりと見えず、感じられず、その分だけ新鮮度に欠けてしまった。
今回のプロモーション’11を見る限り、その殆どが“I.M.F."の授業と重なっているとしか思われなかった。
この両校の”差異”が生徒たちの作品からははっきりと感じられなかったのである。
コンセプト、イメージングドシエ、素材サンプルとプロトタイプ、これらからは何もいわゆる
”学ばなければならない古さと新しさ”が感じられなかった。
僕が思うこの学校の大切なところは“学ばなければならない古さ”も大切で在るという事。
オートクチュールとは此の国の歴史的奢侈文化を“文化を武器”としたところの産業である。
当然だが、此の国のモード関係者はこの自負によってモードの世界を”キャピタル”化し続けている。
この“ジャルダンデモード”のいわゆる、”庭師”を育成するところが
この学校の目指す目的ではないのだろうか?
端的に言ってしまえば、彼らたちには先ず、“土壌”とその”土質”が必然的に学習されていないといけない。
それが感じられず、見えなかった。“土壌”とその”土質”とは先ず、素材の事である。
素材を選ぶこと。素材の質感をどのような布目で使うかのセンス、そのためにはどのような技術が必要か?
その技術を使って、どのようなバランスの美意識で着る人の為に仕立て上げるか?
やはりこのサンディカ付属学校は極論すれば、この世界のお針子さんが持っているべき、
喪われつつもある技術とその技術をどのような美意識と着る人たちの為に使うかの総てを教える学校である。
僕が思うには、”技術”“素材”“美意識”“歴史”“奢侈文化”これで充分であろう。
当然、ここにそのプライオリティが生まれる。
これがこの学校が目指すべき方向でありそれが此の国の『オートクチュール産業』の継続と進化の為に
必要な”庭師”が持っているべき術であろう。
ここにI.M.F.とも、また他の世界のファッション学校との”大いなる差異”がそして、
この付属学校ではのプライオリティが生まれるはずだ。
従って、僕は勝手に、I.F.M.ではオートクチュールビジネスを中心に。
そして、この新しくなったEcole de Chambre Syndicaleでは“技術とスキル”を教える。
と言う分別を持った。
作品からは生徒たちが少し歳を取り過ぎている。ここに至る迄にそれなりの教育を受けて来た連中である。
従って、理論が先走って、手が付いて来ない現実を見る。しかも、その理論が古い。
従って、とても残念だが、多くの作品は新鮮さに欠けてしまった世界だった。
では、”技術”としての手が器用に丁寧さを生む迄のものがあったか?
この新たな付属学校の教授陣を見ても何かが感じられる。
先生をしている僕のこの街での永い友人である、ムッシュ-バルニエは
元I.F.M.のクリエート&イメージング科の教授。その後、メゾンエルメスへ。
そして、ムッシュ-グランバッグ(オートクチュール組合の会長)の秘蔵っ子である。
その彼が実施プラニングを構成し、シナリオを書き、身じかな優秀な人を集め、現実化させたのであろう。
従って当然、”I.F.M.”の匂いは免れない。
今後、どのようにこの臭いを棲み分けてゆくかがみどころであろう。
もう一つは、この新たな移転地のロケーションである。
嘗ては、巴里のモード界では“あのSentierが”とよく言われて一つ軽蔑された眼で見られていた
既製服メーカーや問屋が集まっ手いる界隈、”Sentier/サンチィェ”で在るという事だ。
以前はオートクチュールが発表する新しいラインをシーズンごとに自分たちが既製服に出来るものを
購入していた時代が在った。それから、プレタポルテが出来、例の”トレンド”がデザインされ始めると
彼ら、既製服メーカーや問屋関係者はプレタポルテデザイナーがデザインする新しいラインを、
ショーを見てコピーしてビジネスの術と拠り所にし始めた。これが’70年代以降からだ。
当然、これではプレタポルテ関係者からは嫌われる存在でしかなかったこの”Sentier/サンチィェ”。
その界隈の中にこの新たな学校が移転されてその授業内容も新しくなったと言う事の意味は?
例えば、昨年、あのメゾン-S.リキエルが“SANDRO"や”MAJI"で売り上げを上げた
”Sentier”のアパレル企業に買収された。又、あの“COLLET"も元々は”Sentier”出身である。
このようにここ10年来この巴里のモードの世界の資本の流れも変化した。
儲けて資金力がある方が強い資本主義の現実である。
従って、自然であろう、彼らたちを自分たちの新たな仲間として迎え入れる戦略は的を得ている。
そのためにこの学校が出来る事を“GIVE& TAKE"である。
それともう一つの敵である。グローバリズム以降の世界レベルの“SPA"タイプのファストファッションが
彼らのトレンドの価格破壊によって”第3の勢力化”してしまった事への共同防衛シナリオとも読める。
従って、ここに来て巴里のモードの世界の連中たちも、自らが生み出したグローバリズムを上手く利用し乍ら、
そのために生まれたファストファッションを防御しなければならない必然構造を今後、どのように
『モードのキャピタル』然と世界へ尚も、君臨出来るか?
そのために使える最大の武器は変わらず”文化は武器”でしかない事を熟知した戦略の一環が
この"Ecole de Chambre Syndicale"のリーニュアル化であろう。
そう読み込むと、ここには、もう一つの或る種の今後のこの”モードの巴里”の新たな縮図も見え隠れする。
お愉しみである。これがこの巴里のモード界の強かさでもある。
今年の卒業予定者は39人。日本人は2名、韓国、中国の生徒たちが増えている。
これも現状の現れであろう。彼らたちに聞くと、大半の卒業後の進路は“STARE"しかないという。
いわゆる、クチュールメゾンか、その可能性を含まれた新人デザイナーのところか、プレタポルテメゾンでの
無給の見習い社員の仕事しかない。それも3ヶ月と言う期限付きである。
ここにも従来からのこのモードの巴里の強かで傲慢な一面がある。
多くのメゾンでは人件費節約と手が器用なよく真面目に働くビザを持てない”異邦人”たちを“STARE"として
使いこなして、自分たちのメゾンとその名声そして、ビジネスを潤滑させて来た現実は不動である。
学生が終れば当然、滞在ビザ問題が待ち受けている。
メゾンとしてリスクを張ってこれをクリアーしてくれて、”滞在ビザ”を執ってくれる迄の事は
実力と便利さと利用価値のバランスである。ここでは、もう、何処の学校を出たかは本題から外れてしまう。
例えば、日本人学生たちもその殆どがこの現実を辿り、結果、本人が間違って”ひねる”だけである。
新鮮さを喪い、生意気になりそれに、自分の世界観が霞んで来る。
しかし、そんな彼らたちは「巴里の学校で学んだ。そして有名デザイナーのところで一緒に働いた。」
これが自らの自慢であり、自信になって次なる世界へ挑戦する輩も少ないのが現実である。
おとぎ話、『浦島太郎』は現代にもある。
ここにも所詮、”イエローマインド”を喪失してしまった、
『シングルスタンダード』でしかない日本人の像を見てしまう。
どうか、『W-スタンダード』を持って下さい。
Ecole de Chambre Syndicale/ www.modeaparis.com/vf/ecoles/
文責/平川武治:
投稿者 : editor | 2011年07月13日 04:08 | comment and transrate this entry (0)
こんなメッセージを、巴里の友人のアトリエで、

投稿者 : editor | 2011年07月12日 19:41 | comment and transrate this entry (0)
4ヶ月目を前にして巴里で見つけたもの。
「 すべての 大人たちが
すべてを のりこえて
子どもたちを 守れるように。」
このようなメッセージが
彼のアトリエのボードに貼られていました。
巴里でこのようなメッセージを見ると
こゝろが締め付けられます。
そして、彼らたちは
今日からメキシコシティへ
アトリエごと2ヶ月のバカンスへ旅立ちました。
向こうで劇団の仕事をし乍ら作品を造る為に
小さなJUTTAと大きなJUTTA
それに、BERNHARDの3人が、
自由な好奇心の為に、BON VOYAGE!!!
そして残された僕のこころには、
「 すべての 大人たちが
すべてを のりこえて
子どもたちを 守れるように。」
出来れば、声を出して読んで下さい。
おねがいします。
合掌。ひらかわ:
投稿者 : editor | 2011年07月12日 19:20 | comment and transrate this entry (0)