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始めのごあいさつ。
はじめに、
遅まきながら、平川武治のプライベートサイトを周りの友人たちのお陰で立ち上げました。
今後よろしく御付き合いください。永年ファッションジャーナリストという立場をインデペンデントに活動して来ましたが、やはり、我が国のジャーナリズムが気骨無き【御用ジャーナリズム】と化してしまっていることに微力ではあるが抵抗したくこれを立ち上げました。ジャーナリズムが本来持ちえている【第4の権力】的立場の復活とジャーナリズムがある種の【社会教育】を担っていると言う視点からこのホームページを始めたいです。
多くの人たちと好きなモードの世界を中心にしてコミュニケーションが持てればうれしいです。
初回は日記風に書き始めます。
8月の終わりから東京を離れて先ずはこの街、巴里へ。そして、アントワープ、巴里、アントワープ、チューリッヒ、アントワープそして、コレクションのために再び巴里へ。これが今回の現在までの僕の行動。
8月27日:成田発巴里へヴィエンナ経由で出発。未だ、バカンスから戻っていない閑散とした巴里も一つの顔。8月も第4週の週末になると流石この街のバカンス好きな巴里ッ子達も好きなこの街へ戻って来始める。彼らたちを直接的に巴里へ呼び戻すのがこの街に多くあるアートギャラリィーでの彼らたちが売り出したい作家たちの新作展覧会のオープニングレセプションである。残念ながら、ファッションは2の次だ。今年からちょっと洒落た趣向を凝らしてのオープニングはアート好きな若者たちを喜ばせた。多くのギャラリィーがあるマレ地区の一角でご近所のギャラリィーが共同でオールナイト・オープニングレセプションを催したことだ。僕も30,31日の週末にはこの催しへ顔を出した。中でも面白かったのは『BINGO』展。幾人かの若手アーチストたちのポップでガゼットな作品展。同じテーマで界隈のギャラリィー数軒が共同企画での展覧会。古くからの友人で、日本にも幾度かコレクション写真を撮りに来た事があるフォトグラファー、クリストファー君が全く、新しい作品で持ってアートの世界へ登場し、今回の新人展で見事にデビュー。写真とコンピューターを使って微妙な皮膚感を人工的に合成した写真は医学写真の新しさの様で面白く興味を持った。この後彼はヨーロッパ写真家美術館でアービング・ペンの新作展と共に自分たちの世界をここでも披露している。彼に話しを聞いてみると、彼の作品に興味を持ったここの美術館が制作費用を持ってくれて今回の展覧会になったという。よいものを見る眼とそのよい作家を誕生させる公共の構造がこの街には確りと出来ていて新人であろうが彼らたちの眼に止れば今回のクリストファーのようにデビューが出来る仕組みが結局、この国の文化の新陳代謝になっているのだろう。
「マルタン・マルジェラ・ブランドがイタリーのヂィーゼルへ身売り。」
コレクションを1ヶ月後ほどに控えた9月の始めにこの意外なニュースがこの街のファッション雀たちの口角を賑わせた。今、モードの世界はクリエーションよりビジネスのほうが面白いと言う典型なニュースである。
今、我が国では海外デザイナーブランド物ではバッグのLVには及ばないが、服ではこの『マルタン・マルジェラ』が一番良く売れている、人気度の高いブランドが身売りをした。しかも、あの、イタリーのデニムメーカーの『ヂィーゼル』にである。発表されたのはこちらのファッションビジネス紙の『ジャーナルド・テキスタイル』紙。それをニュースソースとした日本的な記事が「センケン」紙と「WWDJapan」紙に発表された。これらの記事は余りにも表層しか書かれていない。勿論、当事者たちも余り多くを喋りたくない。しかし、面白い事件である。結果、こうなってしまったかと言う感じが僕にはした。なぜかと言うと、ここ3シーズン来、彼のクリエーションは今、一つだった。一時の覇気が無くなっていた。丁度、東京にやっとの事で世界での1番店の直営店がオープンした頃から、その感じが匂い始めた。そして、多くの彼とそのチームの友人たちにそれとなく話をいろいろ聞き始めていた結果が、コレだったのかと。
アントワープのロイヤルアカデミィーを卒業し、J.P.ゴルチェの元で3年半、働きその後、独立したのがマルタン・マルジェらである。彼が未だ、ゴルチェの所にいた時には幾度か会っている。体格がよくいつもキャスケットを被っている物静かなで、ナイーフな青年だった事が印象にあった。‘87年の3月コレクションを最後にゴルチェのアトリエを去り1年半の期間をその準備期間として自らのブランド「マルタン・マルジェラ」を発表したのが’88年の10月コレクション。このコレクションはよく今でも憶えている。この彼のデビュー・コレクションを見た事によって僕はこの仕事をしていて良かった、幸せだと感じたからだ。僕が、マガジンハウスの春原さんを誘って友人のフランス人ジャーナリストに教えてもらって行ったその会場には日本人ジャーナリストはいなかった。ポンピドウーの裏に今でもある小さなライブハウス的なところ、「ラ・ガラージュ」が彼の歴史的なデビューをする場となった。屋外で既に小1時間は待たされた事、その時あのゴルチェもみんなと同じように待っていた姿が印象深く記憶にある。彼はこのコレクションを期に僅か5年間で高イメージを築き上げるまでの見事なクリエーションとショーを僕たちに見せてくれた。デビューコレクションは当然、資金が無いため素材はコットンのみ。永く待たされた後に登場したのがトップレスのマヌカンたち。胸を抑えて出て来た彼女たちが穿いているのがロングのタイトスカート。それから、次々に上ものが着せられてスーツになってタイトでスリムな、健康な若い女性の肩がまるで、はじけ出るのではないかと思わせるようなコットン・スーツそして、僕たち日本人に見覚えのある地下足袋を改造したシューズ。彼が近年に無いデザイナーだと知ったのは僅か5年間で彼自らのパーマネントコレクションを古着を使ってクリエートしてしまった事だ。これは近年のデザイナーにはいなかったことだ。そして、次の5年間で自らのクリエーションを定番化しコマーシャルラインの#6、#10などを完成させた。このコマーシャルラインが売れた。イメージもどんどん昇華した。そして、第3期の5年目でエルメスのデザイナーと東京に直営店第1号を持ち、ブリュッセルと6月にはこの街巴里にも直営店を出店した。この、僅か13年足らずで彼、マルタン・マルジェラは巴里のプレタポルテ、クリエイチィブデザイナーの頂点に達した。多くのデザイナーや学生たちが彼の影響を受けた。モードの流れを完全にストリートへ引き落としたのも彼だった。ショーイングのアイデイアも彼が新しい流れを創った。そして、14年目を迎えようとした時にこの事件(?)である。
「ヂィーゼル社長がマルタン・マルジェラの株式の過半を取得。」このタイトルはセンケン新聞のものであるが現実はこうである。
話は約1年半前ぐらいから起きた。当時、マルタンの生産を請負っていた「スタッフ・インターナショナル社」が2年前に倒産し、その後デーゼル社が買収した。ここで先ず、マルタンとヂィーゼルの関係が出来た。東京1号店の直営店が出来た当時頃からお互いのビジネス戦略上で話し合いが持たれ始めた。店舗を拡張しビジネスを拡大してゆくには「資金」「生産背景」「物流」の充実が必要になる。ここで、「生産背景」はヂィーゼル社の小会社が請負っているのだから「資金」も「物流」もこのヂィーゼル社が望むのならこの組み合わせが一番明解な組み合わせである。その結果がこうだとはちょっとおかしくないだろうか?このマルタン自身がブランド拡大を本心から希望したのだろうか?という疑問から僕はこれが『真意』ではないという発想から調べまくった。あんなにも確実に5年単位で自らのクリエーションとイメージングを昇華しながら地に足を着けたビジネス戦略をキャフルに展開してきたこのメゾンの本当の問題は何なのだろうか?その結果がこのような状況を創るのが一番の方法だったのか?誰が一番儲けたのか?エルメスはどのような態度をとったのか?
確か、昨年の12月頃にかなり多くのスタッフ、7人ほどが辞めた。この中には事実上、コレクションラインをデザインしていた女性もいた。円満退社ではなかった。一方、マルタン自身は旅行に凝っていて、多くの時間を好きな旅行に費やしていると聞いた。ここ3シーズンほど、コレクションラインがコマーシャル化し始めてきた。相変わらず、コマーシャルラインの#2、#6、#10等の売上は伸びていた。ショップが出来てからかなり店頭MDが入たものが店頭にはまってきた。最初から大好きで見て来ている僕にとってはこの変化を感じるのは易しい事だった。何か、このメゾンの内部でも変化が起こっていると思い始めたのが7月。
マルタンがJ.P.ゴルチェの元から独立してバッカーを捜して約1年半後に出会ったのがマダム ジェニィー・メイレン。それまでの彼女はブリュッセルでかなり大きな洋品店を2店舗経営していた。ギャルソンも売っていたし、ヨウジも扱っていた。彼とであった彼女は今までの成功していた洋品店を処分して彼、マルタンに掛けた。いつか,彼女は『彼が私の夢を持って来てくれたのです』と語っていた。そして、‘88年10月のあの衝撃的なデビューコレクションとなる。以後、彼らたちは2人3脚でがむしゃらに働いた。特に最初の5年間は20年分以上のエネルギーを使ってチームワーク良くやって来たから現在があるのだろう。コマーシャルラインのレデイースを見るとその殆んどがマダムジェニィーが似合う服ばかりである。だからこのブランドがその後、彼女のような多くのキャリアウーマンに人気があったことが伺える。
一番儲けたのはヂィーゼル社の社長、レンゾー・ロッソ氏である。彼らたちの約70%の株を買い占めたからである。これからこのようなブランドを新たに造るとしたら、当然造ろうとしても不可能ではあるが、これ以上の資金が必要になるからだ。マダムジェニィーとマルタンはデザインコンサルタントとして年契約をした。結果、いつでも辞めたい時に辞められる。
エルメスが買ったら良かったのにと言ったのはぼくと元ジャルダンデモード誌のマダムアリス・モーガンだけだったと後でエルメスのスタッフから聞いたが、何故そうならなかったのだろう?この一件はここにも一つの鍵があったように思った。エルメスとの契約は後数年残っている。
当然であろうが、物凄く時期、タイミングを計算した結果の出来事であった。マルタンマルジェラ・ジャパンの「ここのえ」はマルタン側と三菱商事との合弁で出来上がっているがこれがこのように整理されるまでこの契約は発表されなかった。当初の『ここのえ』はマルタンと三菱そしてオリゾンチィ社との3社間で始まった。その後、直営店プロジェクトが始まるとこのオリゾンチィ社に無能な社員ばかりで力が無い事が解りオリゾンチィ社を外そうと分担株を減らした。が、そうこうしている間にやっぱり、このオリゾンチィ社の無能力が倒産という行き着く結果を迎えた。その後、このオリゾンチィ社の親会社も無能な社員を持っていても仕方ないと言わんばかりに手放した。その先が伊藤忠。従って、三菱はこの数10%ほどの株を伊藤忠から買い戻さなければならない羽目になった。そして、それがちゃんと終わった段階でこの買収契約が発表されている。それに、仙台の最初からの大取引先である『レボリューション』がマルタンのオンリィーショップを造ってオープニングした後での事の次第でもある。全て、計算された結果の行動である。これは当然であるがこれ程迄に計算された結果の本当には裏が、何かがあるはずだ?
3ヶ月前には既にそれなりの社員たちには話があったという。では、マルタンジャパンの『ここのえ』には同じように話があったのだろうか?
彼らたちの企業成長に我々日本人はどの国よりも貢献し尽くしてきた。彼ら、14年間のサクセス・ストーリィーに日本は最大の理解者であった筈なのに。本当に今後の企業発展のための結果でこうなったのなら、何故、日本企業にもアテンドが無かったのだろうか?エルメスと組まなかったのか?
その最大の原因は? お答えを待つ。
しかし、見事な仕事である。やはり、彼らたちはプロ中のプロであった。スマートでクレバーなファッションピープルだった。
「あんなにも彼らたちの売上に貢献した日本人はマルタン自身が誰であるかも解らないまま、、、、、。Fashion is always in fake.」
マダムジェニィーとマルタンは膨大なお金を手に入れた。
輝きそうな石きっと、輝くと思って一生懸命磨き上げれば、それはダイヤモンドになったという御話。
投稿者 : take.Hirakawa | 2002年10月16日 07:59